坂口安吾人名録データベース 前史
   
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執筆:七北数人
會津八一(あいづ・やいち)
1881(明治14).8.1‐1956(昭和31).11.21

 歌人。美術史家。書家。号は秋艸道人、渾斎、八朔郎など。新潟市生まれ。
 中学生時代から『新潟新聞』などへ投句が掲載され、1899年来越した尾崎紅葉に面会し「鉄杵(てっしょ)」の号をもらう。東京専門学校(のちの早稲田大学)英文科で坪内逍遥らに学び、1910年に逍遥の推薦により早稲田中学校教員となる。
 1922、23年頃には仁一郎宛の手紙のスタイルで『新潟新聞』にしばしばエッセイを寄稿した。
 1926年には早稲田大学文学部講師となり、仏教美術史研究をまとめた『法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究』(東洋文庫、1933年)で学位を受ける。
 1945年4月、東京大空襲で被災した折、仁一郎の長男献吉の手配により毎日新聞社機にて新潟へ疎開。以後、晩年の活動は献吉の支えによるところが大きい。1946年には献吉の要請をうけて夕刊にいがた社社長となる。1949年、同社が新潟日報社に吸収合併されて後も社賓として遇され、同年から『新潟日報』の題字は八一の書が用いられるようになった。
 1948年、早稲田大学名誉教授。1951年、新潟市名誉市民。

板垣退助(いたがき・たいすけ)
1837(天保8)4.17‐1919(大正8).7.16

 自由民権運動の指導者。内相。土佐(高知県)生まれ。
 戊辰戦争では新政府軍参謀として活躍。
 1871年、西郷隆盛、木戸孝允、大隈重信とともに参議に就任するが、73年に征韓論を主張して破れ、西郷とともに政府を去る。
 1874年、自由民権運動の結社「愛国公党」を結成し、後藤象二郎、副島種臣らと民撰議院設立建白書を政府に提出するが却下される。
 1881年、日本初の政党・自由党を結成。全国を遊説して回り、新潟県でも多くの政治家が自由党に入党した。翌年、岐阜で遊説中に暴漢に襲われ負傷。
 1898年、進歩党の大隈重信と大同団結して憲政党を結成。大隈を首相兼外相、板垣を内相とする日本最初の政党内閣が誕生する(隈板内閣)。
 1900年、伊藤博文が憲政党(旧自由党)をのみこんで立憲政友会を結成。これを機に板垣は政界を引退、以後は社会事業などに力を尽くした。

市島謙吉(いちしま・けんきち)
1860(安政7).2.17‐1944(昭和19).4.21

 衆議院議員。『新潟新聞』主筆。早稲田大学図書館長。号は春城。越後水原(すいばら)生まれ。
 1882年、大隈重信が立憲改進党を結成すると、東大を中退してこれに参加。同年、大隈の東京専門学校(早稲田大学の前身)創立にも小野梓、高田早苗らとともに深く関わった。
 1883年、上越地方で初めて創刊された日刊紙『高田新聞』社長兼主筆に招かれ、小野梓・箕浦勝人・吉田熹六らと新潟各地を遊説。おそらくこの時、仁一郎と出逢う。しかし翌年、筆禍に問われ入獄。その後、東京専門学校の政治学講師をつとめる。
 1886年、大隈らの推薦を受けて『新潟新聞』主筆となる。以後、仁一郎とは政友・詩友として、また印癖の趣味の友として、終生の親友となる。
 1888年、新潟の資産家らが設立した殖産協会内に、立憲改進党を支援する「同好会」を仁一郎とともに組織する。
 1891年、『読売新聞』主筆の高田早苗に誘われて同紙の編集に参画、のち主筆となる。
 1894年、衆議院議員に当選。1902年まで3期つとめる。病気のため、以後は早稲田大学の経営に携わり、初代の大学図書館長となる。のち日本図書館協会の初代会長もつとめた。
 1915年、政界復帰した大隈重信の後援会長となって選挙活動に従事。全国各地に大隈後援会ができ、その結果、立憲同志会が第一党に躍進する。
 1918年、仁一郎が『北越詩話』上巻を上梓するのに先立って、『新潟新聞』に同著の紹介文「苦心卅五年」を25回にわたって連載。
 1922年、大隈重信の死に際し葬儀委員長となる。日比谷公園で国民葬を催すと、約30万人の一般市民が参列した。また、墓碑銘を作って仁一郎に鉛板へ揮毫してもらう。
 随筆家としても知られ、多数の著書がある。尾崎紅葉、坪内逍遙とも交遊があり、會津八一を世に出すのにも力があった。

伊藤博文(いとう・ひろぶみ)
1841(天保12).9.2‐1909(明治42).10.26

 初代首相。韓国統監。号は春畝。別号に滄浪閣主人。長州(山口県)生まれ。
 吉田松陰に学び、英国留学後、倒幕運動に参加。1873年、参議兼工部卿となり、内務卿、宮内卿などを歴任。1885年、内閣制度を創設し、初代総理大臣となる。1888年、明治憲法制定に当たる。総理大臣になること4度に及び、1900年9月、官僚や旧自由党などをとりこんで立憲政友会を結党、総裁となる。大隈重信を擁する憲政本党とはライバル関係にあり、仁一郎も『新潟新聞』などで伊藤の政策を批判した。
 日露戦争後、韓国統監となり公爵まで登りつめたが、ハルビンで韓国の独立運動家安重根に狙撃され、死亡。壮年期より書や漢詩をよくし、晩年は森槐南を側近として満洲視察にも同道させた。槐南は伊藤への狙撃で被弾し、これがもとで没する。

犬養毅(いぬかい・つよし)
1855(安政2).4.20‐1932(昭和7).5.15

 首相。文相。逓信相。『郵便報知新聞』記者。号は木堂。備中(岡山県)生まれ。
 1876年、福沢諭吉の慶應義塾に入学。翌年『郵便報知新聞』記者として西南戦争に従軍。
 1881年、福沢と親交の深い大隈重信に国会開設委員として呼ばれ、尾崎行雄らとともに統計院権少書記官となる。
 1882年、大隈を擁する立憲改進党の結成に加わる。
 1886年、『朝野新聞』で大同団結運動を展開。
 1890年、第1回衆議院総選挙で当選。以後42年間、議員をつとめた。
 1898年、第1次大隈内閣では「共和演説」事件で辞任した尾崎の後を受けて文相となる。
 1907年、大隈重信が政界引退を表明すると、憲政本党内では大同団結を主張する「改革派」と、あくまで民権路線を貫く犬養らの「非改革派」が対立、仁一郎は「小犬養」とあだ名される一徹ぶりで犬養を盛り立てた。1910年に立憲国民党となる。
 1913年、護憲運動を展開、桂内閣に対して尾崎行雄とともに内閣不信任案を提出する。立憲国民党の多数は、桂が提唱する大同団結政党の立憲同志会設立に加わることとなり、仁一郎も苦渋の決断で新潟選出の議員らを従えてこれに参加、犬養は少数政党となった国民党に残る。
 1922年、立憲国民党を解党し、尾崎行雄らと革新倶楽部を結成。
 1923年、山本内閣で逓信相、24年、加藤高明の護憲3派内閣でも逓信相をつとめた。
 1925年、革新倶楽部を立憲政友会に吸収させて政界引退を表明するも、後援者らの要請で復帰。
 1929年、請われて立憲政友会総裁に就任。
 1931年、若槻内閣の後を受けて首相となる。高橋是清を蔵相として不況対策、金輸出再禁止などの経済政策を行う。しかし満洲事変の処理などで軍部の反発を買い、1932年、五・一五事件で暗殺された。戦前では政党政治最後の首相となった。

岩渓裳川(いわたに・しょうせん)
1855(安政2).1.27‐1943(昭和18).3.27

 漢詩人。名は晋。別号を半風痩仙。丹波(兵庫県)福知山生まれ。
 1878年、森春濤の「茉莉吟社」に入り、仁一郎と同じ頃から『新文詩』に漢詩が掲載されるようになる。
 1890年、森槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」に加入。1891年に仁一郎が新潟新聞社社長になると、同紙の文芸欄「詞林月旦」に、槐南らとともに折にふれて漢詩の評文を寄せた。1903年4月22、23日の「詞林月旦」に仁一郎の七言絶句12首が掲載された際も、全首の評言を書いた。
 槐南の没後は、国分青涯と並んで詩壇の大御所といわれた。

大江敬香(おおえ・けいこう)
1857(安政4).12.24‐1916(大正5).10.26

 漢詩人。漢詩評論家。名は孝之。阿波徳島生まれ。
 詩を志して菊池三渓および森春濤の添削を乞う。しかし、春濤の『新文詩』に採り上げられたのは1作のみだったという。
 1878年から『静岡新聞』主筆となり、『山陽新報』『神戸新報』主筆を歴任後、東京府庁に勤める。その後も『朝野新聞』漢詩欄の評者をつとめるほか、漢詩雑誌『精美』『花香月影』『風雅報』などを発行。「明治詩壇小史」などの評論が有名。
 森槐南や大久保湘南ら春濤門下の詩人たちが集まった「星社」や「随鴎吟社」などにも参加しているが、春濤のことはあまり評価していない。
 1897年、仁一郎は大江が語ったという春濤・槐南父子の不和説を厳しく指弾している。

大久保湘南(おおくぼ・しょうなん)
1865(慶応1).10.19‐1908(明治41).2.9

 漢詩人。『北海新聞』等主筆。名は達。佐渡相川生まれ。
 『北海新聞』『函館日日新聞』の主筆をつとめた後、上京して森槐南に師事。
 1890年、槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」に加入。野口寧斎・佐藤六石らとともに槐南門下の四天王と称された。
 1904年、槐南とともに「随鴎吟社」を興す。

大隈重信(おおくま・しげのぶ)
1838(天保9).2.16‐1922(大正11).1.10

 首相。蔵相。外相。早稲田大学創立者。肥前(佐賀県)生まれ。
 幕末、佐賀藩校英学塾で副島種臣と共に教頭格で指導に当たる。
 1871年、西郷隆盛、木戸孝允、板垣退助とともに参議に就任。73年に大蔵卿を兼任する。
 1881年、国会開設を早期に達成するべく、親交の深い福沢諭吉の支援を受けて、慶應義塾出身の尾崎行雄や犬養毅を民間からの国会開設委員として登用する。しかし、開拓使官有物払下げを巡ってかつての盟友伊藤博文ら薩長藩閥と対立、「明治14年の政変」により免官となる。
 自由民権運動の高まりとともに、板垣退助が1881年に自由党を結成。
 大隈も翌82年、立憲改進党を結成する。党員は小野梓、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄、前島密、鳩山和夫、箕浦勝人、市島謙吉ら。同年、小野梓、高田早苗、市島謙吉らと東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立する。初代校長は婿養子の大隈英麿。
 1888年、伊藤博文内閣で外相井上馨の辞任に伴い、政敵の大隈が外相となる。2カ月後に発足した黒田清隆内閣でも大隈は外相に留任、不平等条約の改正に取り組んだ。しかし、この時の条約改正が国家主義者たちには自卑的であると映り、89年、大隈はテロに遭い、右足を失う。
 1896年、他の小政党と団結して進歩党を結成。第2次松方内閣で外相に迎えられる。
 1898年、進歩党と自由党とが大同団結して憲政党を結成、旧進歩党の大隈重信を首相兼外相、旧自由党の板垣退助を内相とする日本最初の政党内閣が誕生する(隈板内閣)。
 1901年、遊説のため来越した折、仁一郎も同行して県内各地を回る。仁一郎は生涯一貫して「大隈派」であった。
 1907年、憲政本党総裁を辞任、政界引退を表明し、早稲田大学総長に就任、しばらく文化事業に力を入れる。
 1910年、日本自動車倶楽部が発会、会長をつとめる。
 1914年、加藤高明や仁一郎らの立憲同志会と尾崎行雄らの中正会に請われて政界に復帰、第2次大隈内閣が誕生する。
 1916年、政界から完全に引退。
 1922年、死去。市島謙吉が葬儀委員長となって日比谷公園で国民葬が催され、約30万人の一般市民が参列した。仁一郎は市島謙吉に頼まれ、市島の作った墓碑銘を鉛板に揮毫した。

大野耻堂(おおの・ちどう)
1807(文化4)‐1884(明治17).3.14

 新発田藩の儒学者。名は紳。越後生まれ。
 1853年、聖籠(せいろう)村諏訪山に私塾絆己楼を開く。1871年に入門した12歳の仁一郎の五言絶句を耻堂は激賞した。のち藩学教授格となり、丹羽思亭、藍沢南城と並び称された。

大野楳華(おおの・ばいか)
1834(天保5).4.2‐1884(明治17).10.27

 儒学者。長野県令。名は誠。越後生まれ。大野耻堂の長男。
 初め、父の私塾絆己楼で子弟を教えるが、まもなく江戸に出て浅草、湯島で文武二道の教授をする。維新後は工部権大丞(ごんのたいじょう)の官に就く。
 1874年、東京へ出奔して来た仁一郎を寄宿させた。
 その後、太政官権大書記官、長野県令などをつとめた。

大野璋五(おおの・しょうご)
1895(明治28).5.13‐1985(昭和60).7.16

 東京高等裁判所長官。少年時代の仁一郎が教えを受けた大野耻堂の曾孫。同じく仁一郎と親交のあった大野楳華の孫に当たる。夫人の林(りん)は、安吾の兄献吉の夫人徳(のり)の姉。安吾が長年住んだ蒲田の家の近所に住んでいたが、戦争で焼け出されて後は、安吾の家に一家4人(夫人と息子檀、娘容子)で同居した。1967年、勲一等瑞宝章受章。

小崎懋(おざき・つとむ)
1863(文久3)‐1910(明治43).2

 漢詩人。『新潟新聞』主筆。号は藍川(らんせん)。佐渡相川生まれ。
 1881年、森春濤が来越し仁一郎宅に投宿した際、春濤門下に入る。同時に仁一郎が尾崎行雄から引き継いだ詩会・一酔一吟社に参加。また、仁一郎の紹介により新潟新聞社の記者となる。
 1882年、本間新作らが創刊した文学雑誌『文海一珠』に仁一郎らとともに同人参加。
 1888年、市島謙吉や仁一郎らが立憲改進党を支援する「同好会」を組織するとこれに加わり、党勢拡張のため各地を遊説する。
 1891年、市島謙吉上京の後を受けて『新潟新聞』主筆となる。同紙の文芸欄「詞林月旦」に、仁一郎や森槐南、岩渓裳川らとともに、しばしば評文を書いた。

尾崎行雄(おざき・ゆきお)
1858(安政5).11.20‐1954(昭和29).10.6

 文相。法相。東京市長。『新潟新聞』主筆。号は愕堂、咢堂。相模(神奈川県)生まれ。
 1874年、慶應義塾に入学。79年、福沢諭吉の推薦により『新潟新聞』主筆となる。同時に新潟で最初の県会で書記を委嘱される。新潟に居住した2年の間、仁一郎を漢詩の師と仰いで一酔一吟社を結成、毎月詩会を開く。
 1881年、福沢と親交の深い大隈重信に国会開設委員として呼ばれ、上京。犬養毅らとともに統計院権少書記官となる。
 1882年、『郵便報知新聞』記者となり、大隈を擁する立憲改進党の結成に加わる。
 1890年、第1回衆議院議員総選挙に当選。以後63年、議員をつとめた。
 1898年、大隈内閣で文相に就任するが、「共和演説」事件で不敬とされ解任。
 1900年、大隈の憲政本党を離れて、伊藤博文が結成した立憲政友会に加わるが、3年後に離党。1903年から12年まで、東京市長に就任した。
 1913年、桂内閣に対して犬養毅とともに内閣不信任案を提出、「護憲の神様」と呼ばれる。政友会と対立して離党、中正会を結成。
 1914年、第2次大隈内閣で法相となる。
 1916年、立憲同志会と合同して憲政会を結成。普通選挙法制定をめざすが、21年に離党。
 1922年、犬養毅らと革新倶楽部を結成。軍縮、治安維持法反対などを掲げて活動したが、ここでも大同団結を主張する幹部と対立、無所属となる。
 1945年、「世界連邦建設に関する決議案」を議会に提出。安吾はこれに強い関心を示し、「咢堂小論」を執筆した。
 1953年、総選挙で初めて落選し、引退。衆議院名誉議員、東京都名誉都民(第1号)となる。

小野梓(おの・あずさ)
1852(嘉永5).2.20‐1886(明治19).1.11

 法学者。土佐(高知県)生まれ。
 1871年、米国・英国に留学。1876年から司法省官吏となる。
 1882年、高田早苗、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄らと大隈重信の立憲改進党結成に加わる。同年、大隈のもとで、高田、市島謙吉らと東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立。学校内で仏教講習会を主催する。
 大隈の知恵袋といわれ、1883年には市島謙吉・箕浦勝人・吉田熹六らと各地を遊説、新潟でも演説を行う。
 1885年、主著『国憲汎論』の執筆を終えた翌年、33歳の若さで病死。

勝間田稔(かつまた・みのる)
1842(天保13).12‐1906(明治39).1.30

 新潟県知事。号は蝶夢。山口生まれ。
 幕末の周防山口藩士、明治以後は山口県大属などをへて内務権大書記官となる。その後、愛知、愛媛、宮城の各県知事を歴任。1897年4月から1900年1月まで新潟県知事となる。蝶夢の号で漢詩もよくし、新潟では漢詩結社「鴎鷺会」を結成、仁一郎や三浦桐陰らとしばしば詩会を催した。

桂太郎(かつら・たろう)
1847(弘化4).11.28‐1913(大正2).10.10

 首相。陸相。陸軍大将。元老第二世代。長州(山口県)生まれ。
 1870年から3年間ドイツ留学。山県有朋に引き立てられ、1878年、参謀本部勤務。陸軍にドイツ式兵制をとりいれる。中将、第3師団長として日清戦争に出征、台湾総督をつとめた後、1898年、第3次伊藤博文内閣以降、4代の内閣で陸相をつとめる。
 1901年、首相となる。以後、西園寺公望と交互に3回組閣、桂園時代と呼ばれる。元老や政党議員、財界人らを巧みに懐柔し「ニコポン宰相」と評されたが、日英同盟、日露戦争、韓国併合などを断行する果断さももち、大逆事件をはじめ社会運動を弾圧した。
 1913年、護憲運動を受けて総辞職。その後、自派の官僚と政党議員をとりこんだ立憲同志会設立を提唱。これにより、期せずして仁一郎と加藤高明、若槻礼次郎、町田忠治らが盟友となる。桂は同志会結成を目前にして病死し、加藤高明が総裁となった。

加藤高明(かとう・たかあき)
1860(安政7).1.3‐1926(大正15).1.28

 首相。外相。尾張生まれ。
 東大法科を首席で卒業後、三菱に入社し渡英。帰国後は三菱本社の副支配人となり、岩崎弥太郎の長女と結婚。
 1888年、外相大隈重信の秘書官となる。駐英大使などをへて、1900年、第4次伊藤内閣で外相となる。1906年、第1次西園寺内閣でも外相に就任するが、2カ月後に鉄道国有化に反対して辞任。
 1913年、首相桂太郎の呼びかけに応じ、官僚や仁一郎ら立憲国民党などの政党議員をとりこんだ立憲同志会が結党され、総裁となる。この時、仁一郎は相談役兼新潟支部長。この結党により、仁一郎は加藤、若槻礼次郎、町田忠治らと盟友になる。
 1914年、第2次大隈内閣で外相となる。この時期、第1次世界大戦への参戦、中国に21カ条条約を強制執行するなど、武断的な側面が表に出る。
 1916年、大隈の政界引退に伴い、立憲同志会と尾崎行雄らの中正会が合同して憲政会を結成、総裁となる。元老政治の打破と普通選挙法制定をめざす。この時、仁一郎は党務委員長、新潟支部長に就任。
 1921年、仁一郎が憲政会北陸大会と同時に新潟支部の屋舎新築落成式を開くと、めったに地方の式には出ない加藤をはじめ、幹事長、党務委員長ほか有志500余名が出席した。
 1923年、関東大震災後の戒厳令下、仁一郎の命をうけた安吾が加藤邸を火事見舞いに訪れる。
 1924年、憲政会が比較第一党となり、護憲3派内閣の首相となる。翌年、選挙公約であった普通選挙法を成立させ、ソ連と国交を樹立する。一方で悪名高い治安維持法も成立させた。この内閣以降7代、衆議院の多数政党が組閣する「憲政の常道」が確立された。
 1926年、首相在任中に病死。憲政会同志の若槻礼次郎が首相を継いだ。

国分青涯(こくぶ・せいがい)(正しくは「土」偏+「隶」)
1857(安政4).5.5‐1944(昭和19).3.5

 漢詩人。名は高胤。別号を太白山人。陸前(宮城県)仙台生まれ。
 司法省法学校に入学するがストライキに参加、原敬・陸羯南(くが・かつなん)・福本日南らと共に退学。1889年、陸羯南の創刊した新聞『日本』に漢詩による時事評論を発表して有名になる。1890年、森槐南らと漢詩結社「星社」を結成。明治後期から昭和にかけて、槐南と並び漢詩壇の重鎮であった。1923年、大東文化学院教授。1937年、帝国芸術院会員。
 1919年頃、詩友の田辺碧堂の紹介で仁一郎との交遊が始まる。『五峰遺稿』に収録された詩は、仁一郎の遺志により碧堂と青涯および館森袖海の3人が編集校閲した。

籠手田安定(こてだ・やすさだ)
1840(天保11).3.21‐1899(明治32).3.30

 新潟県知事。貴族院議員。肥前(長崎県)生まれ。
 初め、肥前平戸藩士。山岡鉄舟に剣を学び免許を得たといわれる。維新後は滋賀県令をへて元老院議官。1885年から島根県知事、1891年4月から1896年2月まで新潟県知事となった。1893年、県会議長だった仁一郎と信濃川堤防改築の問題で対立、仁一郎は籠手田を弾劾すべく県会を代表して法制局へ陳情に赴いた。
 その後、1897年まで滋賀県知事をつとめた後、貴族院議員に選ばれ、男爵となる。

小林存(こばやし・ながろう)
1877(明治10).6.6‐1961(昭和36).3.10

 民俗学研究家。『新潟新聞』主筆。歌人。俳人。号は粲楼。中蒲原郡横越(よこごし)村(現在の新潟市江南区)生まれ。
 1894年、東京専門学校(のちの早稲田大学)在学中に、蒲原有明、山岸荷葉、林田春潮らと同人誌『落穂雙子』を発刊。
 1900年12月、新潟新聞社の歌人山田穀城に同紙上で論争を挑む。仁一郎は小林の才能を認めて、坂口家へ自由に出入りさせた。
 1904年2月、新潟新聞社に入社、主筆となる。退社するまでの8年余の間に、三面(みおもて)、秋山、銀山平など新潟県内の主に辺境とよばれる地方の探訪ルポを数多く連載。
 1913年4月、良寛研究の労作『弥彦神社 附国上と良寛』を刊行。
 1934年、新潟県民俗学会(高志路(こしじ)会)を結成。翌35年から月刊誌『高志路』を創刊、新潟民俗学の基礎を築いた。『高志路』1940年11月号には、仁一郎が生前執筆したエッセイ「米穀売買の沿革」が掲載されている。著書に『越後方言考』など。

西園寺公望(さいおんじ・きんもち)
1849(嘉永2).10.23(11.2とも)‐1940(昭和15).11.24

 政治家。首相。京都の右大臣家に生まれる。
 1869年、京都御所内の私邸に私塾「立命館」を開設するが、自由な気風が危険視され1年弱で閉鎖となる。1871年から10年間、フランスに留学して自由民権運動に共鳴。1881年、中江兆民らと『東洋自由新聞』を創刊するが、勅命により1カ月余りで廃刊となる。同年、明治法律学校(のちの明治大学)創立にも関わる。
 伊藤博文の信任を得て各国公使・文相・外相・蔵相などを歴任。1903年、伊藤の後を受けて立憲政友会総裁となる。
 1906年1月から1908年7月まで、第1次西園寺内閣を組閣。以降、桂太郎と交互に組閣し、桂園時代と称される。1911年8月から1912年12月、第2次組閣。その後、薩長閥以外では初めて、かつ最後の元老に任命される。1919年、パリ講和会議の首席全権となる。
 陶庵の号で書や漢詩もよくし、『陶庵随筆』のほか戯曲や仏訳和歌集なども刊行している。文人らを招じたサロンを主宰し、森鴎外、幸田露伴、内藤湖南らと交遊した。

佐藤伊助(さとう・いすけ)
生没年未詳

 明治・大正時代に新潟県岩船郡村上町から選出された衆議院議員。村上銀行頭取。
 1882年、市島謙吉らと共に早稲田大学の創立に関わる。
 1898年から衆議院議員。
 1905年、仁一郎とともに日露戦争戦地視察に赴いた時の筆名「三面江漁」は、故郷の三面(みおもて)川に由来する。日本で最初の鮭の人工孵化場が設置された川として有名。
 1910年、村上町に電話を架設するための発起人の一人となる。
 1913年、水力発電の外人技師を招くなどして村上水電株式会社を創立した。

佐藤六石(さとう・りくせき)
1864(元治1).3.6‐1927(昭和2).4.22

 漢詩人。名は寛。通称は和田蔵。越後新発田生まれ。
 大野耻堂に学び、1881年、来越した森春濤に師事する。1882年、『新潟日日新聞』に入社、編輯長となる。1884年に上京、春濤の「茉莉吟社」に入り、同門の野口寧斎と交遊。
 1889年、文部省の嘱託で『古事類苑』の編纂に携わる。
 1890年、森槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」に加入。野口寧斎・大久保湘南らとともに槐南門下の四天王と称された。各紙誌の漢詩欄の編輯、選評などを手がけ、小説や俳句も発表。
 1892年、慶應義塾大学教授。1906年には韓国統監となった伊藤博文の推薦により渡韓、李王家の顧問に挙げられたほか、英親王の侍読や修学院名誉教授などを兼ねた。

沢本与一(さわもと・よいち)
1880.5‐1935.1.16

 『新潟新聞』主筆。実業家。衆議院議員。東京市助役。山口県生まれ。
 初め、読売新聞社記者だったが、1901年、仁一郎に見込まれて坂口家に寄宿し、20歳で『新潟新聞』主筆となる。
 1904年、日露戦争が起こると従軍記者として出征、後任の主筆を小林存がつとめた。その後、久原商事株式会社の北京支店長となる。
 1923年、重篤の仁一郎を見舞った際、仁一郎の詩を激賞した北京の碩学がいるという話を聞き、直ちに電報でその碩学の許へ部下を派し、仁一郎のために詩を揮毫してもらって、臨終前までに病床へ届けさせた。
 司法省・鉄道省の秘書官などをへて、1928年から衆議院議員(当選3回。民政党)。
 1933年から34年まで東京市助役となる。

鈴木長蔵(すずき・ちょうぞう)
1846(弘化3)‐1909(明治42)

 新潟新聞社社長。新潟市長。衆議院議員。新潟町生まれ。
 1875年、活版印刷の隆文社を創業し、同社から1877年に『新潟新聞』を創刊。まもなく新潟新聞社として独立させ、初代社長をつとめた。
 1879年、第1回県会で副議長となる。1887年、新潟新聞社主筆の市島謙吉と対立して退社。この時、鈴木が放出した株を仁一郎が引き受けて同社の経営に加わる。
 1891年から99年まで、新潟市長に就任。その間、95年には仁一郎が県会の混乱収拾のため、鈴木の中立の立場を適任とみとめて県会議長に押し立てた。また、96年には新潟商業会議所(のちの商工会議所)が創立されて会頭となる。
 1902年から衆議院議員を2期つとめた。

高田早苗(たかた・さなえ)
1860(安政7).3.14‐1938(昭和13).12.3

 文相。早稲田大学総長。江戸深川生まれ。東大文学部を卒業。
 1882年、小野梓、矢野文雄、犬養毅、尾崎行雄らと大隈重信の立憲改進党結成に加わる。同年、大隈のもとで、小野、市島謙吉らと東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立、講師兼評議員となる。かたわら『読売新聞』主筆をつとめる。
 1890年、衆議院議員となる(当選6回。立憲改進党)。これに伴い、『新潟新聞』主筆をつとめていた市島謙吉を『読売新聞』主筆後任として呼び寄せる。
 1892年、牛込で暴漢に襲われる。
 1898年、第1次大隈内閣で文部省参事官となり、1903年に政界を離れる。
 1907年、大隈の早稲田大学総長就任に伴い、学長となる。
 1915年、貴族院議員に勅撰され、第2次大隈内閣の文相となる。翌年、加藤高明を総裁とする憲政会結成に参加、尾崎行雄、若槻礼次郎、浜口雄幸らと総務になる。この時、仁一郎は党務委員長、新潟支部長に就任。
 1923年から31年まで、早稲田大学総長をつとめた。

館森袖海(たちもり・しゅうかい)
1863(文久3).12.3‐1942(昭和17).12.24

 漢詩人。漢学者。名は萬平。別号を拙存園。
 陸前(宮城県)本吉郡生まれ。1895年、台湾総督府文書課に勤め内藤湖南らと交遊。清国留学、台湾の国語学校教諭を経て、1917年帰国。大東文化学院、聖心女学院、日本大学文学科、高等師範学校などの教授を歴任。『日本及日本人』の詩欄選者を担当する。『斯文』『大正詩文』などに稿を寄せた。
 国分青、田辺碧堂とのつながりで晩年の仁一郎と交友があり、青涯、碧堂と共に『五峰遺稿』の編集校閲を行った。

田辺碧堂(たなべ・へきどう)
1864(元治1).12.13‐1931(昭和6).4.18

 漢詩人。衆議院議員。実業家。名は華。通称為三郎。備中(岡山県)生まれ。
 地方在住の漢詩人として坂口五峰(仁一郎)とともに森春濤門下の双璧とうたわれる。剛健な長詩を得意とする五峰と対照的に、春濤と似た艶麗体の絶句を得意とした。絶句以外は作らなかったといわれ、「絶句碧堂」の名で知られる。詩集に『碧堂絶句』『凌滄集』などがある。
 1898年、憲政党の衆議院議員となり、党本部でたまたま上京していた仁一郎と出逢う。晩年の仁一郎に詩友の国分青涯を紹介、『五峰遺稿』に収録された詩は、仁一郎の遺志により碧堂と青および館森袖海の3人が編集校閲した。
 1903年まで2期、衆議院議員をつとめ、大東汽船社長、日清汽船監査役、大東文化学院教授、芸文社顧問などを歴任した。

内藤久寛(ないとう・ひさひろ)
1859(安政6).7.22‐1945(昭和20).1.29

 衆議院議員。実業家。号は栗城。越後刈羽郡生まれ。
 1885年、新潟県会議員となる。1888年、山口権三郎、牧口荘三郎、本間新作ら県下の資産家が殖産協会を設立すると、県議仲間の仁一郎とともに参画。同協会にて日本石油会社を興すことが決まり、会社の定款を仁一郎とともに起草、同社の初代社長となる。
 1894年から衆議院議員(当選2回。進歩党)。
 1896年8月、仁一郎と共に舟を買い、大水害後の信濃川堤防修築を視察し、詩を吟じ合う。
 日本石油会社ではその後、秋田の黒川油田を掘り当て、1921年、宝田(ほうでん)石油を合併、日本の石油界をほぼ独占するに至る。
 1925年、貴族院議員に勅撰される。

永坂石隶(ながさか・せきたい)(正しくは「土」偏+「隶」)
1845(弘化2).9.23‐1924(大正13).8.24

 漢詩人。書家。名は周二。尾張名古屋生まれ。
 森春濤が名古屋で興した「桑三軒吟社」で活躍、丹羽花南らとともに春濤門下の四天王とうたわれる。1874年頃上京、春濤の上京を世話し、春濤の「茉莉吟社」に加わる。
 1890年、森槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」に参加。書画・篆刻にもすぐれた。

中村正直(なかむら・まさなお)
1832(天保3).5.26‐1891(明治24).6.7

 洋学者。啓蒙思想家。号は敬宇。別号に鶴鳴など。江戸生まれ。
 1862年、30歳で幕府の儒官最高の地位に就き、蘭学や英学を修して、幕末の英国留学生監督官として渡英。
 1870年から翌年にかけて、スマイルズの翻訳『西国立志篇』、J・S・ミルの翻訳『自由之理』を刊行。これらがベストセラーとなり、啓蒙思想家として福沢諭吉と並び称される。
 1873年、東京小石川(江戸川町大曲)に私塾「同人社」を開くとともに、福沢諭吉、森有礼、西周らと「明六社」を設立、後進を育てる。1875年、16歳の仁一郎が東京へ出奔したのは、同人社で洋学を学ぶためであった。
 その後、東大教授、貴族院議員などを歴任した。敬宇の号で漢詩にも優れていた。

中村龍太(なかむら・りゅうた)
生没年不詳

 『文海一珠』の同人。号は梨洲。
 仁一郎の曾祖父文仲が私淑した儒者は加藤北溟であったが、『北越詩話』加藤其徳(松斎。北溟の子)の項では、「我が梨洲叔、少時、松斎に学ぶ」とあり、「予が家は、北溟先生以来、両世の因縁あり」と記されている。
 「梨洲」と号する叔父がいたならば、仁一郎の父得七の兄弟か母ユウの兄弟になるが、何人いたか、その名など、未詳。
 「梨洲」の号で仁一郎の周辺に現れるのは中村龍太しか見当たらないので、この人が叔父であった可能性は高い。本間新作と武者喜澄が創刊した文学雑誌『文海一珠』に、仁一郎や弟の義二郎らとともに同人参加している。
 『北越詩話』建部利水の項には「叔子梨洲君、新潟県に官して地誌を編し、助手多く文士を要す」とあり、仁一郎が梨洲に建部利水を推薦したという。
 また、仁一郎が直江兼続を論じた「越人詩話」第1回には「舅社梨洲翁曰く、少時米沢に遊び、上杉侯の文庫を観る」と書かれている。

野口寧斎(のぐち・ねいさい)
1867(慶応3).3.25‐1905(明治38).5.12

 漢詩人。文芸評論家。名は弌(いち)。通称一太郎。肥前諫早(長崎県)生まれ。
 上京して森春濤の「茉莉吟社」に入り、同門の佐藤六石と交遊。早くから詩才をあらわし、1890年、森槐南・国分青涯らの漢詩結社「星社」加入時には、「詩壇の鬼才」と呼ばれていた。大久保湘南・佐藤六石らとともに槐南門下の四天王と称された。
 1903年、詩誌『百花欄』を創刊。新聞や雑誌の漢詩欄選者を多くこなし、文芸評論でも有名となる。

浜口雄幸(はまぐち・おさち)
1870(明治3).4.1‐1931(昭和6).8.26

 首相。蔵相。内相。高知県生まれ。
 1895年、東大法科を卒業後、大蔵省官吏となる。省内には先輩の若槻礼次郎がいた。
 1915年、加藤高明、若槻、仁一郎らの立憲同志会に入党、衆議院議員となる。
 1916年、立憲同志会が中正会などと合同して憲政会を結成すると、尾崎行雄、高田早苗、若槻礼次郎らとともに総務となる。この時、仁一郎は党務委員長兼新潟支部長だったが、1918年に浜口らとともに総務となる。
 1924年、加藤高明内閣で蔵相となる。1926年、加藤急逝の後を受けた第1次若槻内閣では内相に就任。
 1927年、憲政会が政友本党と合同して立憲民政党を結成、総裁に就任する。
 1929年、首相に就任。この年、献吉が刊行した父仁一郎の追悼録『五峰余影』の扉に題字を書く。
 1930年、長年の懸案だった金解禁を断行、産業の構造改革をめざすが、世界恐慌のあおりを受けて大不況に陥る。また、協調外交を推進しロンドン海軍軍縮条約に調印。東京駅で右翼青年に銃撃され、翌年死去。

福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち)
1834(天保5).12.12‐1901(明治34).2.3

 啓蒙思想家。慶應義塾創設者。『時事新報』発行者。大坂生まれ。
 1855年、緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、58年、江戸で蘭学塾(のちの慶應義塾)を開設。独学で英語を学び、1860年、幕府の遣米使節に随行して、勝海舟、ジョン万次郎らとともに咸臨丸で渡米。同年、ヨーロッパ各国も視察して回り、帰国後、アメリカ独立宣言の翻訳などを盛り込んだ『西洋事情』を著す。
 維新後も洋学普及をめざして慶應義塾で教育活動に取り組む。
 1872年2月、『学問のすゝめ』初編刊行。あらゆる人間の平等をうたい、儒学や漢文よりも実学を学べと説いたこの書は、激しい批判を浴びたが、大ベストセラーとなった。
 1873年、森有礼、西周、中村正直らとともに明六社を設立、啓蒙思想の普及に努める。この頃、参議兼大蔵卿の大隈重信と出逢い、しだいに親交を深める。
 1877年、『新潟新聞』が創刊されると、慶應義塾卒の斎木貴彦、藤田九二、古渡資秀、尾崎行雄、津田興二を次々に編輯長として送り込む。
 1881年、大隈重信が国会開設委員を民間から登用するため福沢に相談、福沢は慶應義塾出身の尾崎行雄と犬養毅を推薦、ともに権少書記官となる。
 1882年、『時事新報』を創刊。大隈の立憲改進党結成および東京専門学校(早稲田大学の前身)創立にもバックアップを惜しまず、東京専門学校開校式では福沢が祝辞を述べた。
 著書はほかに『文明論之概略』(1875年)『福翁自伝』(1899年)など。

本間新作(ほんま・しんさく)
1845(弘化2)10.1‐1936(昭和11).7.26

 新潟県実業界の重鎮。県会議員。号は禾雄。越後生まれ。
 新潟の堀家に生まれるが、母親の実家である蒲原郡下新村の大庄屋本間家を継ぐ。
 1869年、明治政府が新潟為替会社を設立、その頭取に就任する。
 1873年、市島徳次郎、山口権三郎らと第四銀行設立の発起人となり、1878年まで取締役をつとめた。
 1876年、『新潟新聞』創刊の発起人となる。仁一郎が大志をいだいて上京するも連れ戻されて悶々としていたところ、本間が引っぱり出して地租改正問題に共に取り組む。村松町から七日町村まで広大な地域に及び、3年余にわたり奔走した。
 1877年、新潟米商会所(のちの新潟米穀株式取引所)を設立。
 1879年、最初の新潟県会議員選挙に当選。弱冠20歳の仁一郎を新潟米商会所の頭取代理とした。
 1882年、武者喜澄(城川)と共に、漢詩・和歌・俳諧の月刊誌『文海一珠』を創刊。1885年の終刊まで、毎号のように五峰(仁一郎)の漢詩が載る。
 1887年、新潟新聞社の初代社長鈴木長蔵が退社したため、一時的に社長となる。以後、仁一郎を同社の経営に引き入れる。
 1888年、山口権三郎の首唱による殖産協会設立に参画。県議の仁一郎や内藤久寛をとりこんで日本石油会社を興し、2人に会社の定款を草してもらう。
 ほかにも北陸水力電気会社、北陸鉄道、新潟鉄工所などの設立に関わったほか、郡農会長として農事改良に力を尽くした。

前島密(まえじま・ひそか)
1835(天保6).1.7‐1919(大正8).4.27

 郵便制度創設者。実業家。貴族院議員。越後上越生まれ。
 薩摩藩の蘭学講師。維新後は民部省、大蔵省官吏となり、郵便制度の創設を建議。
 1871年3月、郵便事業を開始させ、「郵便」「切手」などの名称を定める。
 1872年6月、『郵便報知新聞』創刊。矢野龍渓、尾崎行雄、犬養毅、吉田熹六ら慶應義塾出身者を多く採用した。
 1879年、内務省駅逓総監となるが、81年、「明治14年の政変」で大隈重信とともに辞職。
 1882年、大隈を擁する立憲改進党の結成に加わる。
 1887年から90年まで、東京専門学校(のちの早稲田大学)の第2代校長に就任。
 その後、逓信次官、北越鉄道社長などをつとめ、貴族院議員に勅撰される。

町田忠治(まちだ・ちゅうじ)
1863(文久3).3.30‐1946(昭和21).11.12

 農相。商工相。蔵相。国務相。号は幾堂。出羽(秋田県)生まれ。
 1888年、『朝野新聞』で犬養毅、尾崎行雄らとともに論説記者となる。その後、大隈重信の所有する『郵便報知新聞』の経営に携わり、1895年『東洋経済新報』を創刊。
 1896年からは財界に入り、日本銀行調査役、山口銀行総理事などを歴任。
 1912年、衆議院議員となる。立憲国民党に属し、仁一郎、武富時敏らとともに立憲同志会準備委員となる。以後、仁一郎と親交を結ぶ。
 1914年、第2次大隈内閣の農商務省参政官に抜擢される。この時、仁一郎も参政官に推されたが固辞し、代わりに同郷の鳥居金帝(正しくは「金」偏+「帝」)次郎を推して内務副参政官に任命させた。
 1926年、第1次若槻内閣で農相に就任。続く浜口雄幸内閣、第2次若槻内閣でも農相をつとめた。1934年の岡田内閣では商工相となる。1935年、民政党総裁に就任。以後、蔵相、参議、国務相などを歴任した。
 戦後1945年、日本進歩党を結成、総裁となったが、翌年公職追放により政界を引退した。

三浦桐陰(みうら・とういん)
1848(嘉永1)‐1915(大正4).7

 漢方医。漢詩人。名は春。通称宗春。越後水原生まれ。三浦鳩村の子。
 1883年、同郷の市島謙吉らが立憲改進党の演説で新潟に来ると、これを積極的に支援した。この時、おそらく仁一郎とも出逢う。折しも旧友の清の漢詩人王治本が桐陰のもとを訪れ、仁一郎は治本の詩集『舟江雑詩』を編集、出版した。
 以後、仁一郎、市島らと酒席や詩会で交遊するようになる。3人には「印癖」と呼ばれる共通の趣味があった。桐陰は仁一郎に名篆刻家の高芙蓉や巻菱湖(まき・りょうこ)、濱村薇山の刻した印を進呈し、お礼に仁一郎から七言古詩を贈られている。また、やはり高芙蓉の「滄浪」と刻した印を桐陰が市島に進呈したところ、仁一郎がどうしても欲しくて市島にねだりつづけ、とうとう手に入れてしまったという逸話もある。
 1897年、新潟県知事として来越した勝間田稔(蝶夢)が漢詩結社「鴎鷺会」を結成すると、仁一郎とともにしばしば詩会に参加。その後、知事が替わっても、仁一郎と桐陰は10余年参会しつづけた。

箕浦勝人(みのうら・かつんど)
1854(嘉永7)2‐1928(昭和3).8.30

 逓信相。『新潟新聞』主筆。号は青洲。豊後(大分県)生まれ。
 1871年、福沢諭吉の慶應義塾に入学。1875年、『郵便報知新聞』に入社、自由民権運動の論説で有名になる。その後、宮城師範学校の教師に招かれ、79年には仙台師範学校と改称した同校の校長となる。
 1882年、大隈重信を擁する立憲改進党の結成に加わる。『新潟新聞』主筆として新潟へ赴き、同紙を立憲改進党の機関紙がわりに利用する中、同紙の小崎懋らを通じて仁一郎とも知り合い、酒席で詩を談じたり政論を戦わせたりするようになる。
 1883年には小野梓・市島謙吉・吉田熹六らと新潟各地を遊説する。
 1890年の第1回衆議院選挙で当選。以後37年間議員をつとめた。
 1898年、第1次大隈内閣で逓信省次官となる。
 1913年、首相桂太郎が立憲同志会の結成を呼びかけると、立憲国民党内ではあくまで反対の犬養毅と対立して、箕浦ら国民党五領袖は脱党。仁一郎は犬養派であったが、苦渋の決断で新潟の代議士を引き連れ同志会結成に参加した。
 1915年、第2次大隈内閣で逓信相に就任。

三宅瓶斎(みやけ・へいさい)
1801(寛政13・享和1)‐1860(安政7・万延1).2.16

 幕末の越後村上藩士。名は安懿。通称は相馬。越後生まれ。
 郡奉行から砲術師範となる。藩内の飢饉や財政窮乏対策でも活躍する。
 漢文にもすぐれ、著書に『北越七奇考』『国語律呂考』などがある。

村山真雄(むらやま・まさお)
1885(明治18).3.30‐1959(昭和34).12.14

 松之山村長。酒造業。歌人。号は紅邨・紅村・黄邨など。松之山生まれ。
 1897年、新潟中学へ通学のため、新潟市西大畑町の仁一郎宅に5年間居候する。
 1898年、仁一郎が『新潟新聞』に「碁談」(「棊談」)連載の折、13歳の真雄が口述筆記した。
 1908年、熊本五高を中退して東京大学国文科に入学。これも翌年中退。
 1910年8月、仁一郎の五女セキと結婚。(父の村山政栄(せいえい)は仁一郎の妹貞を後妻に迎えている。)
 1932年12月、鎌倉で病気療養中の娘村山喜久を義弟の安吾が見舞いに訪れ、弟の村山政司と3人で戯れの詩画集「小菊荘画譜」3冊を作る。戦前、安吾はしばしば松之山を訪れた。
 1935年、安吾らと伊豆大島から下田、天城、江の浦を旅行する。
 1936年、安吾が尾崎士郎に村山家の造る日本酒「越の露」を紹介。
 1947年5月、『月刊にいがた』に「岳父坂口五峰の思い出」を寄稿。
 酒造業を営むかたわら、松之山村長、信用組合長などをつとめた。歌人として歌集を2冊刊行している。

森槐南(もり・かいなん)
1863(文久3).11.16‐1911(明治44).3.7

 漢詩人。官吏。名は公泰。尾張(愛知県)生まれ。森春濤の子。
 1890年、国分青涯らと漢詩結社「星社」を結成、主宰となる。1891年に仁一郎が新潟新聞社社長になると、同紙の文芸欄「詞林月旦」に、折にふれて漢詩の評文を寄せた。仁一郎の作る漢詩の添削にもしばしば応じている。この頃から各紙で漢詩欄が設けられるようになり、東京日日新聞、毎日新聞、国民新聞などの選評も槐南が担当した。
 1899年、漢詩雑誌『新詩綜』を創刊。1904年には大久保湘南らと「随鴎吟社」を立ち上げ、主宰となる。父春濤亡き後の明治漢詩壇の第一人者といわれる。東京帝国大学の講師をつとめ、文学博士となる。
『唐詩選評釈』『杜詩講義』『槐南集』など多くの著書がある。
 官吏としては1881年から太政官につとめ、宮内大臣秘書官、式部官などを歴任。晩年は伊藤博文の側近となり、ハルビンへ随行したとき伊藤狙撃の銃弾に当たり、その傷がもとで死亡。

森春濤(もり・しゅんとう)
1819(文政2).4.2‐1889(明治22).11.21

 漢詩人。名は魯直。尾張(愛知県)生まれ。森槐南の父。
 1862年、名古屋で漢詩結社「桑三軒吟社」を興し、丹羽花南、永坂石隶(「土」扁+「隶」)らを育てる。
 1874年、東京で「茉莉(まつり)吟社」を興す。翌75年、漢詩壇の名詩を収集した『東京才人絶句』2冊を上梓するとともに、漢詩専門雑誌の先駆けとなる『新文詩』を創刊、日本漢詩壇のリーダーとなる。1879年から五峰(仁一郎)の詩も『新文詩』に載りはじめるが、春濤は自身の艶麗なスタイルとは異なる五峰の剛健で「古詩大作にふさわしい」漢詩を褒め、その資質をのばすよう勧めた。1881年8月に新潟を訪れ、上大川前通の仁一郎宅に投宿している。
 詩集に『春濤詩鈔』『岐阜雑詩』『新潟竹枝』など。

矢野龍渓(やの・りゅうけい)
1850(嘉永3).12.1‐1931(昭和6).6.18

 政治家。小説家。本名は文雄。豊後(大分県)生まれ。
 1872年、福沢諭吉の慶應義塾に入学。その後、前島密が創刊した『郵便報知新聞』の編集に携わる。
 1881年、福沢と親交の深い大隈重信に国会開設委員として呼ばれ、犬養毅、尾崎行雄らとともに統計院に入る。
 1882年、大隈を擁する立憲改進党の結成に加わる。
 1883年、政治小説『経国美談』前編を刊行、評判となる。
 そのほか、冒険SF『浮城(うきしろ)物語』など著書多数。

山口権三郎(やまぐち・ごんざぶろう)
1838(天保9).6.9‐1902(明治35).10.12

 新潟県政財界の重鎮。号は俊明。越後刈羽郡横沢村(村上市)生まれ。
 1879年、第1回新潟県会議員選挙で当選、翌年県会議長となる。1888年、牧口荘三郎、本間新作ら県下の資産家に呼びかけて殖産協会を設立。県議の仁一郎や内藤久寛をとりこんで日本石油会社を興し、2人に会社の定款を草してもらう。仁一郎と市島謙吉らは殖産協会内に立憲改進党を支援する「同好会」を組織した。
 1892年、長岡に私立実業学校を創設。
 日本石油のほか、北越鉄道、長岡銀行、第四銀行などの設立に関わった。

山田穀城(やまだ・よしき)
1876(明治9)8.8‐1933(昭和8).7.30

 歌人。『新潟新聞』記者。号は小金花作(こがね・はなさく)。のち山田花作。佐渡相川生まれ。
 1892年、佐渡青年学会を組織。小金花作の名で佐渡における和歌革新運動の旗手となる。
 1896年秋頃、その文才を新潟新聞社社長の仁一郎に見込まれ、弱冠20歳で同社に入社。『新潟新聞』の文芸欄「詞林月旦」に山田の和歌が多く採り上げられるようになる。また、秘書のような役目で坂口家に起居した。5年後には論説も書くようになる。
 1903年3月、歌集『野調』を刊行。これについて仁一郎が『新潟新聞』で斧正を加え、一時論争になる。
 歌人を糾合して「みゆき会」を結成し、機関紙『わかな舟』を刊行、県下新派歌人のリーダーとなる。著書に『県政波瀾史』『山田花作歌集』など。

吉田熹六(よしだ・きろく)
1859(安政6)‐1891(明治24)

 衆議院議員。『新潟新聞』主筆。徳島生まれ。
 慶應義塾を出て、1882年、大隈重信の立憲改進党結成に参加。尾崎行雄らと『郵便報知新聞』記者となる。
 1883年、小野梓・市島謙吉・箕浦勝人らと各地を遊説、新潟でも演説する。
 1884年、箕浦の後を受けて『新潟新聞』主筆となるが、86年、洋行のため退任する。

若槻礼次郎(わかつき・れいじろう)
1866(慶応2).2.5‐1949(昭和24).11.20

 首相。蔵相。内相。松江生まれ。
 1892年、東大法科を首席で卒業後、大蔵省官吏となる。
 1912年、第3次桂太郎内閣で蔵相となる。14年の第2次大隈内閣でも蔵相。
 1916年、加藤高明、仁一郎らと憲政会結成に加わり、副総裁となる。
 1923年、関東大震災後の戒厳令下、仁一郎の命をうけた安吾が若槻邸を火事見舞いに訪れたが、留守中で会えなかった。
 1924年、加藤内閣で内相となり、翌年、加藤とともに普通選挙法と治安維持法を成立させる。
 1926年、加藤が首相在任中に急逝、後を受けて首相となる。
 1930年、ロンドン海軍軍縮会議において首席全権として出席。
 1931年、民政党総裁となり、浜口内閣の後を受けて、第2次若槻内閣を組閣。
 戦争中は重臣会議のメンバーとなり、ポツダム宣言受諾などにも関わった。

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