坂口安吾人名録データベース 前史
   
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執筆:七北数人
伊藤昇(いとう・のぼる)
1903(明治36)‐1993(平成5)

 1922年よりトロンボーン奏者として活躍し、1927年に作曲家デビュー。小節の概念にとらわれない斬新なスタイルで、多調性の作品、特殊編成の作品など、実験的な未来派の作曲を手がけた。ピアノ曲「黄昏の単調」(1927年)、「マドロスの悲哀への感覚」(1929年)、弦楽四重奏曲「幼年の詩」(1930年)などがある。歌曲「太陽に歌ふ」(1930年)は日本で初めてのスキャットであり、「狐の祭」(1932年)には、ジャズのリズムが取り入れられている。1933年以降は、映画音楽も60本以上作曲した。
 『言葉』第2号と『青い馬』第4号に音楽論を執筆。安吾にドビュッシーとサティを紹介したのは伊藤ではないかといわれる。安吾や菱山修三らが参加して1933年5月に創刊された同人誌『桜』にも音楽論を書いている。

岩佐明(いわさ・あきら)
生没年不詳

 牧野信一を編集主幹として1931年10月に創刊された『文科』に安吾とともに参加、第1輯に翻訳「ラ・ロシュフウコオの言葉」を載せている。
 1932年3月の『青い馬』第5号にネルヴァルの小説「緑の魔」を訳載している。

鵜殿新一(うどの・しんいち)
生没年不詳

 詩人で『青い馬』第5号に「宿弾」を発表。その後、筆名は「鵜殿新」とした。安吾とは碁の仲間でもあった。鵜殿の兄が経営する雄風館書房は駿河台から本郷元町に移り、ここの2階に鵜殿は起居した。『紀元』の同人として創刊準備の頃や、また安吾が菊富士ホテルにいた時代など、連れだってよく飲みに行ったようす。鵜殿宅に安吾が泊まり込んで小説を書いていたこともあったらしい。安吾のエッセイ「市井閑談」(1939年)や矢田津世子宛書簡などから当時の交遊ぶりがしのばれる。

江口清(えぐち・きよし)
1909(明治42)‐1982(昭和57)

 アテネ・フランセで長島萃に次いで安吾と親しくなり、3人でデュアメルの「深夜の告白」の読書会をしたりした。『言葉』『青い馬』同人で、『青い馬』第3号からは本多とともに編集の主幹となり、編集所も田畑の葛巻方から神田岩本町の江口方に移った。ほぼ毎号にラディゲやポオル・モオランなどの翻訳を載せたほか、『青い馬』第3号と第4号には小説も書いた。安吾が竹村書房の企画に関与していた1936年ごろ、竹村から「フランス心理小説叢書」もしくは「フランス知性文学全集」を出すことになり、その一巻、ラディゲの訳者として安吾は江口を推挙した。ただし、この企画は立ち消えになってしまったという。その後、翻訳家として『定本ラディゲ全集』『メリメ全集』をはじめ多数の訳書を出した。

大久保海洋(おおくぼ・ひろみ)
1908(明治41)‐

 安吾とアテネ・フランセのクラスで知り合って飲み友達となり、牧野信一や矢田津世子らにも紹介されたらしい。1933年5月ごろ『東京週報』を発行した折、安吾も少し企画に参加したらしいことが矢田津世子宛書簡から窺われる。のち慶應義塾大学名誉教授。ラクロ、アベ・プレヴォ、ルナールなど多数の訳書がある。

太田忠(おおた・ただし)
1911(明治44)‐

 伊藤と同じ未来派の作曲家の一人。「原始の歌」(1931年)、「交通標識」(1935年頃)など、表現主義的な音楽をつくった。ロシアの作曲家アレクサンドル・チェレプニンが1934年から36年にかけて来日した折、伊福部昭らの音楽とともに評価され、海外に紹介された。『言葉』第2号にエッセイ「音楽の横顔」を執筆。

片岡十一(かたおか・じゅういち)
1908(明治41)‐1991(平成3)

 日影丈吉の本名。1923年、雑誌『童話』に入選。アテネ・フランセと川端画学校に学ぶ。『言葉』では第2号に、散文詩ともエッセイともつかない創作「さんどりよんの唾」を載せたほか、「美術の係」であったと本人は後に語っている。
 その後フランスに留学。1935年から麹町の料理文化アカデミー仏語部でフランス語を教える。戦後1949年、日影丈吉の筆名で『宝石』百万円懸賞探偵小説コンクール短篇の部に入選。以後、ミステリー、幻想小説の分野で数多くの作品を執筆し、カルト的人気があった。フランス・ミステリーの翻訳も多い。最晩年の1990年に泉鏡花文学賞受賞。

片山勝吉(かたやま・かつきち)
生没年不詳

 安吾から勝公などと呼ばれて親しまれた作家。『青い馬』第4号に小説「るい」を発表。
 『紀元』創刊準備の頃は一緒によく遊び歩いたようすが矢田津世子宛書簡などに書かれている。安吾の文芸時評「悲願に就て」(1935年)には、片山の鬼気迫る作品世界が紹介され、「私は時々、あいつもう自殺をするんぢやないかと思つてしまふ」という感想が述べられている。1937年末ごろ、京都に住む安吾に就職の世話を頼んでいる。

葛巻義敏(くずまき・よしとし)
1909(明治42)‐1985(昭和60)

 堀辰雄、中野重治、窪川鶴次郎らを中心とした同人誌『驢馬』(1926年4月~28年5月)に第11号から同人参加し、幻想的な小説を寄稿。1927年から堀辰雄とともに岩波書店版『芥川龍之介全集』の編集に携わる。
 アテネ・フランセで安吾と出逢い、『言葉』『青い馬』では安吾と共に編集の主幹をつとめた。当時カリエスで肋膜を悪くしており、毎晩相当量のカルモチンをのんでいたらしい。田畑の芥川家2階にあった葛巻の部屋で、安吾は葛巻に頼まれて何度も徹夜で翻訳をし、葛巻はその隣でひと晩に100枚以上もの小説を書き上げたと「暗い青春」や「青い絨毯」にある。編集会議は葛巻の部屋か蒲田の坂口家で行われることが多かった。
 『言葉』創刊号から変名でいくつもの翻訳を掲載、『青い馬』創刊号には小説「一人」も発表したが、第3号以降は執筆がなく、編集も江口清に譲った。
 晩年には神経衰弱になって斎藤茂吉の病院に通った。

沢部辰雄(さわべ・たつお)
生没年不詳

 豊山中学時代からの安吾の友人。1922年9月、豊山中学へ転校した時、同時期に転校してきた安吾、山口修三と親しくなる。哲学好きの秀才で、安吾と共に禅寺へ坐禅を組みに出かけたりした。1927年秋頃から精神病で巣鴨保養院に入院したことが短篇「二十一」「母」などに書かれている。自身も鬱病で読書もできなくなっていた安吾は、山口修三の家と沢部のもとを訪問するのを日課とした。1928年初め頃、退院して千葉の方へ去る。

白旗武(しらはた・たけし)
生没年不詳

 『言葉』同人。同人名記載は1930年11月の第1号のみだが、執筆はしていない。その後も同人であったかどうかは不明。
 『今日の詩』1931年2月号でラディゲの詩を訳載しているので、『青い馬』創刊に依らずともすでに翻訳者として知られていたようである。伊藤整の編集による『新文学研究』1931年7月号にもプルーストの翻訳を載せている。
 『今日の詩』1931年7月号にはエッセイ「『黒谷村』」で安吾の同作を評価して「ヴェニス提灯にも似た人情の灯を愛するものである」と述べた。

関義(せき・よし)
1904(明治37)‐

 『言葉』『青い馬』同人。アテネ・フランセ図書部に勤めていて、宣伝用ポスターの文面が葛巻義敏に気に入られて同人に参加。創刊準備が始まって3カ月たっても原稿の集まりが悪く、関の書いた1篇「ヘルクラノムの悲劇」が『言葉』創刊号唯一の創作小説となった。同号にはアポリネールの小説「プラーグの通行人」も訳載した。その後も翻訳、小説、詩、エッセイなど執筆した。
 『青い馬』終刊後も、安吾から寄席やカジノ・フォーリー見物に誘われたという。
 1939年、取手に引っ越した安吾を交えて野上彰や若園清太郎らと、同人誌『野麦』もしくは『青麦』を出そうと計画するが実らずに終わる。
 プリニエ『醜女の日記』、ラファイエット夫人『クレーヴの奥方』、ゾラ『居酒屋』『ナナ』など多くの訳書がある。

高橋幸一(たかはし・こういち)
生没年不詳

 『言葉』『青い馬』同人。『青い馬』創刊号にアンリ・ソオゲの演劇評「『ミスティグリ』(マルセル・アシャアル)」を訳載したほかは執筆していない。
 のちに文藝春秋社勤務。戦後、鎌倉文庫『人間』の編集をつとめたが、1951年に鎌倉文庫がつぶれ、文藝春秋新社に戻る。

多間寺龍夫(たまでら・たつお?)
生没年不詳

 『青い馬』第5号に創作「素朴な愛情」を発表。1937年ごろ京都に滞在していたらしく、「吹雪物語」執筆中の安吾と京都で偶然出逢って飲みつぶれる。その後、安吾の京都での下宿先を探す手伝いをしたようすが隠岐和一宛書簡に記されている。

長岡輝子(ながおか・てるこ)
1908(明治41)1.5‐2010(平成22).10.20

 女優。演出家。劇作家。詩人。岩手県盛岡市生まれ。
 1927年5月~28年5月発行の雑誌『演劇芸術』に翻訳戯曲などを発表。
 1928年、演劇修行のためパリ留学。
 『青い馬』創刊号と第2号に詩を寄せているが、これらは留学先のパリから郵送したものだったという。1928年ごろ『火の鳥』に寄稿したこともあり、同誌の古谷文子と親しかったので、古谷経由で『青い馬』に持ち込まれたものだろう。アテネ・フランセには妹の節子が通っていたが、両人とも『青い馬』同人たちとの交流はなかった。
 1930年10月に帰国後、金杉惇郎とテアトル・コメディを結成、マルセル・アシャールの「ジャン・ド・ラ・リュンヌ」「愉しき哉人生」「ドミノ」、ヴェベルの「じゃじゃ馬馴らし」など、長岡輝子訳によるフランスの風俗喜劇を次々と上演した。
 安吾が『青い馬』第5号発表の「FARCEに就て」その他でアシャール喜劇を褒めているのは、テアトル・コメディの舞台を見て触発されたものかもしれない。安吾は1933年秋にも若園とテアトル・コメディで観劇しており、かつてはよく観たらしいことが矢田津世子宛書簡から窺われる。
 戦後1946年に詩集『詩暦』刊行。紀伊国屋演劇賞、芸術祭文部大臣賞ほか多数の受賞歴がある。女優、演出家として、舞台、映画、テレビで活躍するほか、劇作、詩作、朗読の会なども行った。2010年、老衰のため102歳で死去。

長島萃(ながしま・あつむ)
1909頃‐1934(昭和9).1.1

 本名は義雄。桂太郎首相の娘婿であった政治家長島隆二の妾腹の子。遺伝性梅毒だったといわれ、周期的に精神錯乱を起こして自殺未遂を企てた末、病没。
 『言葉』『青い馬』の同人で、安吾にとってアテネ・フランセでの最初の友人であり、交流は深い。先生も舌を巻くほどの語学の天才で、アテネ初等科の頃から安吾と常に連れだっていた。安吾は長島と毎週1回ルノルマンの戯曲「落伍者」を読み合わせしたと小説「いづこへ」(1946年)で書いている。長島のことは追悼文「長島の死」や小説「暗い青春」などに詳しく書かれている。妹の孝子は、一時『婦人公論』の記者であった。
 『青い馬』創刊号にフィリップ・スウポオの小説「白い夜々」を訳載したが未完。
 安吾は戦後、自著『堕落論』の巻末にエッセイ「長島の死」を置き、長島の遺稿「エスキス・スタンダール」を併録した。

西田義郎(にしだ・よしろう)
生没年不詳

 『青い馬』第5号に創作「夢を掠める」を発表。以後、『紀元』の同人に参加。のちに『改造』の編集者から編集長となる。戦後、太宰治、織田作之助、安吾の鼎談を企画。アラゴン「芸術論」の訳者としても知られる。

根本鐘治(ねもと・しょうじ)
?‐1931(昭和6)

 『言葉』『青い馬』同人。『言葉』創刊号に「根本鍾治」名義でジョイスの小説「イーブリン」と「根本鐘治」名義でスウポオの「シナリオ」を訳載、巻末の同人名は「鐘治」で、以後も「鐘治」と記された。『青い馬』第3号に詩「こがらし他3篇」を発表したが、肺病で早世。同人の中で最も先に死んだと「暗い青春」に書かれている。1931年7月3日発行の『青い馬』第3号まで寄稿しているが、脇田隼夫のように編輯後記に訃報が記されていないので、第3号発行前に没したものか。

阪丈緒(ばん・たけお)
1904(明治37)‐1983(昭和58)

 仏文学者坂丈緒。パリ大学を卒業し、帰国後、1932年創刊の第1次『劇作』に西欧演劇理論を連載した。アテネ・フランセの教師から後に理事となる。『ロオランの歌』(1941年)、ガストン・バティ『演劇の真髄』(1942年)などの訳書がある。
 『言葉』第2号から同人となり、同号と『青い馬』第5号に翻訳を発表した。

菱山修三(ひしやま・しゅうぞう)
1909(明治42).8.28‐1967(昭和42).8.7

 アテネ・フランセで安吾らと知り合い、『青い馬』から同人となり、第2号に詩「物の本 他3篇」を発表。第5号では堀辰雄と梶井基次郎を論じた。
 1929年から堀口大學主宰の詩誌『オルフェオン』に詩を発表。1930年4月~31年6月発行の詩誌『時間』に北川冬彦、丸山薫らと同人参加、新散文詩運動の中心となる。1931年1月、第1詩集『懸崖』を刊行、新進詩人として脚光を浴びた。1935年5月、逸見猶吉、草野心平、高橋新吉、中原中也らと詩誌『歴程』の創刊同人となる。多数の詩集、エッセイがある。安吾は菱山のヴァレリー訳詩集出版を祝って書いた「宿命のCANDIDE」(1933年)において、菱山のことを「わが友は日本の生んだ最も偉大な詩人の一人となるであらう」と絶讃。1933年5月創刊の同人誌『桜』にも安吾に誘われて参加している。
 戦後は1953年に早稲田大学のフランス語講師もつとめた。

富士原清一(ふじわら・せいいち)
1908(明治41)‐1944(昭和19)

 1927年11月~28年2月、北園克衛らと日本初のシュールレアリスム詩誌『薔薇 魔術 学説』を発行(全4冊)。1928年11月からは滝口修造、北園克衛、佐藤朔、西脇順三郎らを同人に迎えて、詩誌『衣裳の太陽』(全6冊)を編集発行。その他、多くの詩誌に作品を発表した。エリュアール、アラゴン、ロートレアモンなどの翻訳もある。
 『青い馬』第2号にトリスタン・ツァラの「dada宣言」を、第3号にエリュアールの詩「宇宙・孤独」を訳載している。
 1931年7月、安吾によるトリスタン・ツァラの訳詩を載せたモダニズム雑誌『L'ESPRIT NOUVEAU』も、富士原が創刊にかかわったもの。
 1937年~42年、第一書房勤務。ビルマで戦死。

古谷文子(ふるや・ふみこ)
生没年不詳

 1928年10月~33年10月、女性文芸誌『火の鳥』に、小金井素子、小山いと子、村岡花子らと同人に加わり、小説、エッセイなどを発表。この雑誌には、矢田津世子、大谷藤子、板垣直子、大田洋子、中里恒子らも寄稿した。文芸評論家古谷綱武の妹で、長岡輝子に誘われてテアトル・コメディに出演したこともあるという。
 『青い馬』創刊号に詩「心の唄」を発表。
 その後、俳優の滝沢修と結婚して共に左翼劇場などに参加したが、若くして病死した。

本多信(ほんだ・しん?)
生没年不詳

 詩人。小説家。画家。本名は信寿。
 『言葉』『青い馬』を通して、編集の中心メンバーの一人であった。特に『青い馬』第3号からは江口とともに編集の主幹となる。全号に執筆があり、小説、詩、文芸評、演劇評、翻訳、エッセイなど縦横無尽の活躍をした。
 1931年5月、長谷川巳之吉編集発行の詩誌『セルパン』に、堀口大學、室生犀星、萩原朔太郎、田中冬二、深田久彌、蔵原伸二郎、野口米次郎、竹中郁、青柳瑞穂らに混じって詩「夜の歌」を発表。その後、大蔵省会計課に勤務。
 1937年、東京日日新聞社と大阪毎日新聞社が共同で軍歌「進軍の歌」の歌詞を懸賞募集した折、これに応募して1等当選。陸軍戸山学校軍楽隊の作曲・演奏でコロムビアからレコード発売され、60万枚を超えるヒットになった。作曲者を筒井快哉とするレコードもあるが、それは後年のカバーで編曲や演奏者が違う。ただし曲は同じなので、軍楽隊で実作に当たった人が筒井であったのかもしれないが、初回のSP盤に印字された作曲者は軍楽隊名義である。軍楽隊長の辻順治が作曲したとする資料もあるが、これは間違い。辻は1932年に軍楽隊長を定年退職しており、同じ「進軍の歌」の題で全く別の曲を作曲・指揮したことがあるようなので、これに引かれての流説と考えられる。安吾は晩年「世に出るまで」の中で、本多信のことを「愛馬行進曲」を作った詩人、と書いているが、「愛馬行進曲」を作詞したのはこれも別人で、この「進軍の歌」と混同したものであろう。この後、霧島昇の「納税愛国の歌」や「納税小唄」などの作詞も担当。
 後年には画家としてパリのサロン・ドートンヌに出品され、1972年春、東京で個展を開き人気を博したという。

三堀謙二(みつぼり・けんじ)
1902(明治35)‐?

 新潟中学の友人。安吾より4歳上だが、学年は2年先輩だった。安吾とは読書仲間で、1922年9月に東京の豊山中学へ転校後まもない時期に安吾が三堀に送った手紙には、戯曲を書き始めたことが記され、「啄木式の」歌が7首、書かれている。安吾は1927年に池袋へ引っ越した時には三堀に案内ハガキを出しており、新潟へ帰省した折にはしばしば三堀宅を訪れた。戦争中にも三堀宅で撮影された安吾の写真がある。

山口修三(やまぐち・しゅうぞう)
1904(明治37)‐?

 豊山中学時代からの安吾の友人。1922年9月、豊山中学へ転校した時、同時期に転校してきた安吾、沢部辰雄と親しくなる。卒業後も手紙のやりとりは続き、安吾は創作への決意や文学論、鬱病とたたかう心境などを、山口に宛てて赤裸々に綴っている。
 1927年頃には、岸田国士・岩田豊雄・関口次郎主宰の新劇研究所の研究生になる。その頃、毎日のように安吾の訪問を受ける。しかし翌年、家の生活費を使い込み、婆やを残して弟と夜逃げ。それから5年後、安吾にまた友達になってほしいと手紙を書く。『言葉』『青い馬』の同人になったのは、安吾に絶交された5年の間である。アテネ・フランセ外からただ1人の参加であるが、『青い馬』第4号に小説「コムパクト」を発表したのみ。安吾の温情で名前だけ同人加入したものの、同人会などには参加しなかったのだろう、他の同人らの回想中に山口の名はほとんど現れない。

山沢種樹(やまざわ・たねき)
1908(明治41)‐1952(昭和27)

 若園清太郎とともに『言葉』『青い馬』『紀元』の経営および編集事務に当たった。『言葉』創刊号にラディゲの掌篇「花売りの少女」を、第2号にコクトーのエッセイ「『白紙』抄」を訳載したが、『青い馬』には書いていない。『紀元』には小説を発表。安吾とは飲み友達で、935年、お安の亭主から逃れて放浪中だった安吾は、自分への連絡先として、『紀元』発行所にもなっていた山沢宅を記していた。
 『言葉』以前に、安藤鶴夫らと同人誌を作っていたこともあり、『都新聞』に演芸記事なども書いた。戦後は『東北文学』などに小説を発表した。

山田吉彦(やまだ・よしひこ)
1895(明治28)‐1975(昭和50)

 きだみのるの本名。アテネ・フランセでギリシャ語を教えるかたわら、デュルケーム『社会学と哲学』(1925年)、ジュリアン・バンダ『知識人の反逆』(1925年)、ラマルク『動物哲学』(1927年)、ファーブル『昆虫記』(1930年2月~34年12月、林達夫との共訳)などの訳書を本名で刊行していた。
 『言葉』第2号に同人記載があるが、『言葉』にも『青い馬』にも執筆はない。
 江口清の回想によると、安吾は山田のギリシャ語初等科クラスを修了したという。寒村生活と世界放浪のあと、1948年、ルポ『気違ひ部落周游紀行』で毎日出版文化賞を受賞。その後も同種の文明批評の本などを多数著した。

若園清太郎(わかぞの・せいたろう)
1907(明治40)12.23‐1991(平成3)

 バルザック研究家。翻訳家。京都生まれ。
 1928年4月、アテネ・フランセ入学。同校の図書部の仕事を手伝い、コット学長の秘書も務める。
 1930年、安吾や葛巻義敏らと『言葉』『青い馬』創刊に加わる。『言葉』創刊号にはクーロアの「オネガアー論」、第2号にはダリウス・ミロオのサティ追悼文「エチュード」を訳載。『青い馬』創刊号からは「硫酸紙の仮面」など小説3篇、エッセイを発表するほか、ジャン・デボルドの小説「悲劇役者」の翻訳を連載した。
 1933年、『紀元』同人となり、同誌に執筆するほか、山沢種樹とともに経営および編集事務に当たる。その後も翻訳家、バルザック研究家として活躍。
 1935年、若園が『バルザックの生涯』を出した折、安吾は『紀元』に「清太は百年語るべし」を書いて激励。その夏に胸膜炎を患った折には、安吾の世話で群馬県吾妻郡の新鹿沢温泉および長野県小県郡の奈良原鉱泉に湯治に赴き、安吾とともに一夏滞在する。
 1941年秋、『バルザックの歴史』『バルザックの方法』の2著を刊行した折には、安吾が出版記念会の世話役を引き受け、会場設営、署名帳の準備から受付まで率先して引き受けてくれる。11月3日、銀座「エーワン」にて開催された出版記念会の席で安吾と石川淳の交友が始まる。
 戦争中は安吾の長兄献吉の紹介で電通の関連会社へ入社(戦後は電通勤務)、1945年3月に応召した折には、家族は安吾の世話で長野県小諸に疎開するなど、安吾との交流は家族ぐるみで深く、戦後も公私ともに助け合った。

脇田隼夫(わきた・はやお)
?‐1931(昭和6).7.23

 『言葉』『青い馬』同人。『言葉』創刊号にヴァレリーの「スタンダール論」を訳載し始めるが、病気で書き継げないまま、早世。安吾の「暗い青春」に、根本鐘治に続き2番めに死んだとある。1931年9月20日発行の『青い馬』第4号の編輯後記に「脇田隼夫が宿痾のために、急に僕たちから去つてしまつたことは残念至極です」と記されている。

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