坂口安吾人名録データベース 詳細年譜2
   
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執筆:七北数人
青山二郎(あおやま・じろう)
1901(明治34)6.1‐1979(昭和54)3.27

 装幀家。美術評論家。東京市生まれ。
 資産家の家で中学時代から骨董や美術品に親しむ。
 1924年、友人の紹介で小林秀雄を知り、翌年、小林や河上徹太郎、富永太郎、永井龍男らの『山繭』に同人参加。
 1930年5月、小林、河上、永井、井伏鱒二、牧野信一、堀辰雄、今日出海、三好達治、中島健蔵、大岡昇平らの『作品』創刊に参加。青山宅に小林、河上、三好、中島、大岡らが集まるようになり、「青山学院」と称される。のちには白洲正子や宇野千代とも親しくなる。
 1931年秋、中原中也と出逢う。10月、牧野信一主宰の『文科』同人となって表紙題字を書き、安吾と知り合う。
 1932年、先妻の弟が銀座京橋にバー「ウヰンザア」を開店、「青山学院」メンバーや安吾ら『文科』同人たちの溜まり場となる。同店の女給に坂本睦子がいた。しかし、中也が店で暴れることが多かったため数年でつぶれてしまったといわれる。
 1942年秋、静岡県伊東町玖須美に疎開、以後7年間、同地にて暮らす。
 1949年8月下旬、伊東へ転地療養に来た安吾にヨットを貸す。また、9月4、5日頃、安吾が伊東で最初に間借りした玖須美の秦秀雄方も青山が紹介したと思われる。秦は戦前、北大路魯山人と星ケ岡茶寮をつくり、のち目黒茶寮、戦後は梅茶屋を開き、青山と懇意であった。青山は安吾と入れ違うように10月に伊東の家を出て、12月に坂本睦子の五反田のアパートに同居する。
 1950年、青山命名のバー「プーサン」が開店、坂本睦子を勤めさせる。
 まとまった著書は少なく、1952年『眼の引越』などのほか、2003年『青山二郎全文集』上下がある。

伊沢幸平(いざわ・こうへい)
1909(明治42)‐1976(昭和51)

 詩人。評論家。長野県上伊那郡富県村(現在の伊那市)生まれ。
 1927年、伊那中学(現在の伊那北高等学校)時代に同級生らと同人誌「泉地(オアシス)」を編集発行し、詩を発表。同じ頃、伊那中学校応援歌「天竜河畔に咲く桜」を作詩、現在まで愛唱されている。1928年、同中学卒業。
 東洋大学文学部を卒業後、小田原で中学の国語教師となる。小林秀雄に師事、三好達治とも親交があり、歴史に造詣が深かった。
 1940年1月、三好の世話で小田原に住むようになった安吾と親しくなり、歴史資料探索の手伝いなどをする。
 戦争中は東京創元社に勤務、哲学書出版に携わるかたわら詩作、評論執筆に励む。
 1944年12月頃、安吾が文化映画「黄河」の脚本を書くため、黄河に関する書物を探索していた折には、鳥山喜一の『黄河の水』などを奨める。
 1945年、郷里の伊那市に疎開。鉱山会社経営、『伊那タイムス』勤務などを経て、1951年から出身校の伊那北高校で国語教師をつとめる。
『信濃毎日新聞』などに評論や詩を発表し、1952年にエッセイ集『机上滴々』、1967年に詩集『途上』を刊行。没後、友人らによって『伊沢幸平集』が刊行された。

井上友一郎(いのうえ・ともいちろう)
1909(明治42)3.15‐1997(平成9)7.1

 小説家。本名は友一。大阪生まれ。
 早稲田大学専門部法科から仏文科に転科。在学中『換気筒』同人に加わり、小説を発表。
 1931年頃、同じ早稲田仏文科で『東京派』同人の田村泰次郎、河田誠一らと知り合う。
 1933年5月、田村泰次郎、坂口安吾、河田誠一、矢田津世子、菱山修三、真杉静枝、大島敬司らと商業的同人誌『桜』創刊するが、同年10月には版元が手を引き編集長格の大島敬司も同人脱退、井上が編集長となる。新たに北原武夫らを同人に加えるが、安吾らが抜けてしまう。それでも翌年から第3号以降の発行を続ける。
 1936年、早稲田大学仏文科卒業。都新聞社(のちの東京新聞)の文化部文芸記者をしていた北原武夫の紹介で、9月から同じ文芸記者となる。
 1939年3月、砂子屋書房から『波の上』を刊行、出版記念会には安吾も出席する。同年7月、『文学者』に発表した私小説「残夢」が丹羽文雄に激賞され、都新聞社を退社、本格的に作家生活に入る。
 1941年から『現代文学』同人に加わり、大井広介の家で、安吾や平野謙、荒正人らと探偵小説の犯人当てや野球盤などをして遊ぶ。
 1943年11月、徴用逃れのため、大井広介の紹介で福岡県飯塚の麻生鉱業山内坑の労務係として単身赴任。
 戦後は風俗小説作家として活躍、1946年『竹夫人』、1949年『蝶になるまで』『絶壁』など多数の著書がある。

大岡昇平(おおおか・しょうへい)
1909(明治42)3.6‐1988(昭和63)12.25

 小説家。評論家。翻訳家。東京市生まれ。
 1925年12月、青山学院から成城第二中学校(26年から旧制成城高校)4年次に編入。同級生の加藤英倫、安原喜弘、富永次郎、古谷綱武らと知り合う。
 1928年、小林秀雄と出逢い、小林からフランス語の個人教授を受ける。小林を通じて中原中也や河上徹太郎と知り合い、中也、河上と富永、安原、古谷らを同人として『白痴群』の創刊を計画。当時から中也の詩に天才を感じ、晩年に至るまで中也に関する著述には労を惜しまなかった。
 1929年4月、京都帝大文学部入学。同月、『白痴群』創刊(~30年まで)。
 1932年3月、京大卒業。同月初め、河上徹太郎の紹介で京都へ訪ねて来た安吾を、京大経済学部にいた加藤英倫に紹介し、自分は東京へ去る。東京では『作品』に執筆するようになり、同誌の小林や河上、中島健蔵、青山二郎、佐藤正彰らと親交を結ぶ。
 1933年1月、横浜に帰省していた加藤と、安吾、矢田津世子を交え夜半まで飲む。
 1935年5月、安吾が竹村書房で企画した『スタンダアル選集』の翻訳者の1人に推挙され、中島健蔵の東大仏文科研究室で安吾らと打ち合わせに応じる。大岡は京都在住の生島遼一を誘うため出張費を竹村に請求したが、その額が少なくて不満をかこち、結局、大岡の担当分「リュシアン・ルウヴェン」上・下のみ翻訳が成らずに終わる。
 1938年から43年まで、帝国酸素に翻訳係として勤務。
 1944年、教育召集を受け、暗号手としてミンドロ島に駐屯。
 1945年1月、米軍捕虜となり、レイテ島にて収容される。
 1949年3月、戦争体験を描いた『俘虜記』により横光利一賞を受賞。本格的な作家生活はこの時から始まる。4月に明治大学文学部仏文学講師に就任。この頃から8年近くの間、坂本睦子を愛人とする。睦子はかつて安吾や中也、河上、小林と浮き名を流した女給で、青山二郎の庇護を受けていた。
 1957年頃、睦子と別れる。翌年4月に睦子が自殺すると、睦子をモデルとして同年8月から「花影」を連載、1961年に刊行され、新潮社文学賞と毎日出版文化賞を受賞。
 その他の著書に1950年『武蔵野夫人』、1952年『野火』、1971年『レイテ戦記』、1977年『事件』などがある。

岡田東魚(おかだ・とうぎょ)
生没年不詳(1890年代前半の生まれ)

 編集者。文人囲碁会メンバー。本名は金蔵。北海道函館生まれ。
 安吾より10幾つ上で、明治大学に入学後、政治活動にのめりこみ、1912年頃から尾崎行雄の遊説に随行して全国をまわったりしたという。1915年には政治活動をやめて明治大学に復学、1917年に卒業して郷里の函館へ戻る。
 何年かして上京、講談社の『講談倶楽部』編集者となり、1933年頃からアテネ・フランセに通いはじめる。囲碁が得意で、本郷3丁目の碁会所「富岡」の常連でもあった。
 1938年8月頃、若園清太郎の紹介で安吾を知り、一緒に富岡へ誘う。頼尊清隆ら囲碁仲間を交えて、安吾とよく飲みに行く。また、共に文人囲碁会に出入りするようになる。住まいは板橋にあったが、同年12月発表の安吾作品「閑山」に感心、安吾に心酔して当時安吾の住んでいた菊富士ホテルに仕事部屋を借りて住み、安吾の生活の補助までする。
 1939年2月、文人囲碁会で安吾や頼尊、若園、野上彰、豊島与志雄らと本郷チームを結成、尾崎一雄らの上野砂子屋チームと対戦して圧勝する。3月、安吾が取手に転居するため菊富士ホテルを退去する際、「吹雪物語」の直筆原稿を預かる。5月、野上彰、頼尊清隆とともに取手へ赴き、若園清太郎、関義らを加えて『野麦』もしくは『青麦』という同人誌を作る計画に安吾を誘うが、資金の問題で同人誌は実現せず。12月下旬、アテネ・フランセで安吾と若園に会うが、精神不安定で青山脳病院への入院をすすめられる。年末、板橋の家を売って、神奈川県片瀬に移り住む。
 1940年1月3日、岡田を捜していた安吾と若園の来訪を受け、一時精神病院へ入院するが、すぐに退院して郷里の函館へ引っ越す。
「吹雪物語」の直筆原稿は、安吾没後、岡田が函館図書館に寄贈したため今日に残っている。

隠岐和一(おき・わいち)
1911(明治44)頃‐1945(昭和20)7

 小説家。編集者。京都市中京区両替町生まれ。実家は老舗帯地問屋。
 田村泰次郎と大学で同級だったといわれるので、1931~34年頃まで早稲田大学にいたことになる。卒業後は博文館で『講談雑誌』の編集に携わる。
 1932年頃、安吾と出逢い、銀座のバー「ウヰンザア」などでの飲み仲間となる。
 1933年9月、安吾と牧野信一の肝煎りで『紀元』を創刊。編輯兼発行者は初め竹内富子であったが、第5号から隠岐に変わる。編集実務は隠岐と若園清太郎、山沢種樹とが担当し、同人は鵜殿新一、片山勝吉、西田義郎、谷丹三、丸茂正治、寺河俊雄らのほかに、安吾の紹介で中原中也や富永次郎、加藤英倫、安原喜弘が加入。安吾は打ち合わせの席で、特に谷と隠岐の小説を買っている、と皆の前で太鼓判を押す。『紀元』は隠岐の応召まで長く続き、隠岐は同誌に、本名と「沖和一」の筆名を併用して速水鏡太郎シリーズや「竹本ゆたか」など多くの作品を発表。
 1937年1月、胃病の療養で京都に帰省。その折、長篇に没頭したいという安吾を嵯峨の別宅に呼ぶ。2月、京都に着いた安吾に最大限の歓待をし、丹波亀岡の大本教本部爆破跡を一緒に見物に行ったり、下宿先を探しに行ったりする。まもなく隠岐は東京に戻るが、実家の家族ぐるみで安吾の面倒をみる。その後も安吾とは頻繁に手紙のやりとりをして、原稿用紙の手配や金策まで、東京から安吾の世話を焼いた。
 1938年夏頃、安吾の上京と入れ違いに1度めの応召。京都市深草歩兵第九連隊へ配属される。安吾や若園、山沢、尾崎一雄、草野心平、田村泰次郎ら大勢集まって、「武運長久」を祈って日章旗に寄せ書きする。
 1941年秋、若園の『バルザックの歴史』および『バルザックの方法』2著が刊行された折には、安吾らと出版記念会の世話役を引き受ける。
 1942年2月頃、2度めの応召。終戦間際の1945年7月25日頃、フィリピンで戦死。

尾崎一雄(おざき・かずお)
1899(明治32)12.25‐1983(昭和58)3.31

 小説家。三重県に生まれるが、3歳から実家の神奈川県下曽我で育つ。
 志賀直哉に私淑し、早稲田大学国文科在学中の1925年、同人誌『主潮』に小説「二月の蜜蜂」を発表、早くから文壇で評価される。その後長く低迷するが、1933年「暢気眼鏡」を発表、私小説(心境小説)の分野で新境地を開き、同作を総題とする短篇集により1937年芥川賞を受賞。
 1934年、谷崎精二が復刊した第3次『早稲田文学』の編集に携わり、1936年の初め頃、安吾に執筆を依頼、初めて出逢う。
 1936年6月、小田嶽夫、伊藤整、上林暁らと『文学生活』を創刊、翌37年4月に安吾も同人に加えるが、同年6月で廃刊となる。
 1937年3月、『早稲田文学』の編集を砂子屋書房の浅見淵に移譲、尾崎は代わりに砂子屋の編集に携わる。砂子屋社主の山崎剛平と尾崎は早稲田高等学院の同級生。
 1938年、野上彰主宰の文人囲碁会が始まり、山崎剛平とともに顔を出すようになる。翌年2月、山崎や榊山潤らの上野砂子屋チームと、野上や安吾らの本郷チームと囲碁対戦する。その後も安吾とは終生親しく付き合う。
 1944年、胃潰瘍による喀血で倒れる。
 戦後は再び『早稲田文学』の編集に携わる。また1945年末頃、安吾と尾崎士郎に誘われて『風報』創刊に参画、途中で安吾は企画を離れ、1947年9月、尾崎士郎との共同編集で創刊。創刊号では安吾との対談(司会は士郎)が掲載された。
 著書に1949年『虫のいろいろ』、1962年『まぼろしの記』、1975年『あの日この日』などがある。

尾崎士郎(おざき・しろう)
1898(明治31)2.5‐1964(昭和39)2.19

 小説家。愛知県幡豆郡生まれ。
 1916年、早稲田大学予科(政治科)入学。社会主義に傾倒し、1917年の早稲田騒動では指導的立場となって行動する。
 1920年、月謝滞納により早稲田大学除籍。同年、『時事新報』の懸賞短篇小説で「獄中より」が2等入選する。社会主義に根ざした小説をいくつか書いた後、しだいに芸術派の方向へ進む。
 1923年、宇野千代と結婚、馬込に居を構える。
 1925年、プロレタリア文学に対抗して中村武羅夫が創刊した『不同調』の同人となる。
 1927年、川端康成に誘われて伊豆湯ヶ島に赴き、萩原朔太郎、梶井基次郎らと親交を結ぶ。安吾が戦後編纂した士郎の短篇集『秋風と母』には、この頃の短篇が多く入集された。
 1929年、宇野千代と離婚。古賀清子と結婚し、翌年から大森に住む。
 1932年、徳田秋声を中心とする「あらくれ会」に加わる。
 1933年3月から8月まで『都新聞』に「人生劇場」(青春篇)を連載。
 1935年3月、『人生劇場』(青春篇・愛慾篇)が竹村書房から刊行され、大ベストセラーとなる。シリーズは20年にわたって断続的に書き続ける。
 同年5月、安吾が「枯淡の風格を排す」で徳田秋声らを批判したことに怒り、竹村書房を介して「決闘」を申し込む。以後、安吾とは終生の友となる。
 1936年夏頃から安吾と同人誌『大浪曼』創刊を計画するが、実現せず。
 1937年1月末、京都へ出立する安吾の送別会を両国「ももんじ屋」で開く。
 1938年秋頃、『人生劇場』第何版かが印税未払いで販売され、竹村書房と訴訟になりかけるが、安吾の仲介で一旦は収まる。しかし翌日また話は逆戻りし、終戦まで安吾と疎遠になる。
 1941年、宣伝班員として徴用され、1年間フィリピンに赴任。
 1944年、疎開のため伊東に転居。
 1945年9月、戦犯に挙げられそうな噂を案じて、安吾が久しぶりに大森へ訪れる。疎遠だった関係は急速に深まり、11月には安吾と同人誌『風報』創刊に向けて動きだす。12月末から翌年正月にかけて3回、GHQ戦犯事務所に呼ばれて行った時、安吾が秘書の名目で同道してくれる。
 1946年、士郎のもとへ勉強に来ていた高橋旦青年を安吾に紹介する。5月頃、『風報』の計画で意見が合わなくなり、安吾は編集から退く。8月、安吾の編纂により短篇集『秋風と母』刊行。
 1947年5月、『風報』創刊号用に、安吾と尾崎一雄の対談を組み、司会役をする。
 1948年、公職追放仮指定になった時、安吾が異議申立書を書いてくれ、総理大臣宛の書状とするが、1950年までの公職追放が決定する。
 1949年8月、転地療養のため安吾が伊東に転居、檀一雄らもまじえて交遊。
 1951年6月、瓶山事件が起こり、安吾とともに現場を取材に出向く。同月、安吾が書き置いた「遺言状」の証人となり、1通を保管する。
 1954年11月末、新潟日報社新社屋落成記念の講演会で新潟に赴き、安吾とともに講演。
 1955年2月、安吾死去に伴い、葬儀委員長となる。
 1957年6月、新潟市の護国神社境内に安吾碑が建立された時には発起人代表となる。
 その他の著書に1938年『石田三成』、1949年『ホーデン侍従』、1951年『天皇機関説』、1955年『雷電』などがある。

加藤英倫(かとう・えいりん?)
1908(明治41)11‐没年未詳

 評論家。翻訳家。大学教授。神奈川県横浜市生まれ。母はスウェーデン人。
 成城第二中学校(26年から旧制成城高校)在学中に同級生の大岡昇平、安原喜弘、富永次郎、古谷綱武らと知り合う。京都帝大独文科の学生であったといわれるが、後年の『清和女子短大紀要』の記載によれば、1933年3月、京大経済学部を卒業している。
 1932年3月初め、京都に着いた安吾は京大卒業間際の大岡昇平を訪ね、大岡の世話で加藤の住む左京区八瀬黒谷門前のアパートに部屋を借りる。京大哲学科美術史専攻の安原喜弘や、加藤に惚れていたと安吾のいう画家黒田孝子らを交えて、毎晩のように安吾と酒を酌み交わし、安吾と2人連れ立って1週間ほど神戸へも旅行する。この後、横浜にしばらく帰省している。
 1932年の年末から翌年始め頃にかけて、銀座京橋のバー「ウヰンザア」で安吾と飲んでいる時に、旧知の矢田津世子が来店、安吾に紹介する。それからまもなく、矢田を連れて安吾の家を訪問、矢田と安吾の恋愛をとりもった形になる。
 1933年3月、京大経済学部卒業後は文学部言語学科に転科。ちょくちょく帰省していたものか、同年1月には、安吾や大岡、矢田と夜半まで飲み、6月から9月にかけても横浜にいたようである。安吾の肝煎りで創刊された『紀元』に9月から同人加入し、ここに何作かの小説を発表。安吾はドストエフスキーの会にも加藤を誘っている。
 1936年、京大文学部言語学科を卒業。
 1939年4月、運輸省観光局の嘱託となり、日本を英語で紹介する「ツーリストライブラリー」の編集に携わる。戦後は同シリーズの編集長となり、日本交通公社参事を務める。
 1951年10月、カリフォルニア大学講師として渡米。53年にはモントレー大学、アメリカ陸軍語学校、55年にはエール大学講師をつとめ、58年に帰国して成城大学文芸学部講師となる。のち教授となり、定年退職後、1976年から清和女子短大教授となる。
 1986年4月、清和女子短大副学長・兼任教授に就任。
 翻訳書に1985年『新渡戸稲造全集』第18巻など。

嘉村礒多(かむら・いそた)
1897(明治30)12.15‐1933(昭和8)11.30

 小説家。山口県生まれ。
 山口中学を中退後は役場に勤め、結婚するが夫婦仲はうまく行かず。
 1925年、妻子を捨て愛人小川ちとせと駆け落ち、上京する。
 1926年、中村武羅夫主宰の『不同調』記者となり、葛西善蔵の知遇を得て、葛西晩年の作品の口述筆記をする。
 1928年、『不同調』1月号に「業苦」、7月号に「崖の下」を発表、私小説の極北として文壇の注目を浴びる。
 1931年10月、牧野信一主宰の『文科』創刊に加わり、安吾や河上徹太郎、小林秀雄、中島健蔵らと知り合う。
 1932年2月、「途上」で文壇的地位を確立するが、翌年11月、結核性腹膜炎のため死去。12月2日の葬儀には安吾も参列、牧野信一と久闊を叙す。

河上徹太郎(かわかみ・てつたろう)
1902(明治35)1.8‐1980(昭和55)9.22

 文芸評論家。音楽評論家。翻訳家。長崎市生まれ。本籍は山口県。
 幼少期を神戸で過ごし、1916年、父の転勤に伴い、東京府立第一中学校3年次に転入。同級生に富永太郎、村井康男らがおり、1年下に小林秀雄がいた。
 1923年、東京帝大経済学部入学。在学中の1925年、小林秀雄、富永太郎、中原中也、永井龍男らの『山繭』に音楽論を発表。1926年、東大卒業。
 1927年春、中原中也と知り合う。
 1928年、小林宅で大岡昇平と知り合う。この年、結婚。
 1929年、中也、村井、大岡、富永次郎、安原喜弘、古谷綱武らと『白痴群』を創刊、編集人となり、詩論やヴァレリーの翻訳などを発表。
 1930年5月、小林、永井、井伏鱒二、牧野信一、中島健蔵、青山二郎らと『作品』創刊。
 1931年10月、牧野信一主宰の『文科』創刊に加わる。『文科』同人の牧野や安吾、中島らと飲むことが多くなる。
 1932年3月、京都に行く安吾に京大卒業間際の大岡を紹介する。
 1933年10月、小林、中島、川端康成らと『文學界』同人となる。
 1934年1月、阿部六郎との共訳でシェストフ『悲劇の哲学』刊行、文壇の話題になる。
 1938年頃から、もと京橋のバー「ウヰンザア」の女給だった坂本睦子を愛人とする。
 著書に1932年『自然と純粋』、1938年『音楽と文化』、1940年『道と養』、1959年『日本のアウトサイダー』、1960年『吉田松陰』など。

河田誠一(かわだ・せいいち)
1911(明治44)11.23‐1934(昭和9).2.3

 詩人。小説家。香川県三豊郡(現在の三豊市)仁尾町生まれ。
 三豊中学時代から詩誌『愛誦』に投稿、数多くの詩が採用されていた。
 1929年、第二早稲田高等学院(大学予科に当たる)に入学。同級生の田村泰次郎や大島博光と知り合う。詩よりも小説を志すようになる。
 1930年3月、早稲田高等学院を中退。同年12月1日、田村泰次郎、大島博光、寺河俊雄、秋田滋らと『東京派』創刊(翌年8月まで全6冊)。同誌に小説や詩を発表。
 1933年5月、田村泰次郎、坂口安吾、井上友一郎、矢田津世子、菱山修三、真杉静枝、大島敬司らと商業的同人誌『桜』創刊。
 1934年2月3日、22歳の若さで肺結核により死去。
 1940年9月30日、田村と井上の尽力により、草野心平の装幀で『河田誠一詩集』(昭森社)が刊行された。

北原武夫(きたはら・たけお)
1907(明治40)2.28‐1973(昭和48)9.29

 小説家。本名は健男。神奈川県小田原市生まれ。
 1926年、慶應義塾大学文学部仏文科入学、のち国文科に転科する。在学時から『三田文学』『詩と詩論』などに評論や小説を発表。
 1931年7月1日、山下三郎らと『新三田派』を創刊(翌年6月まで全8冊)。創刊まもない7月13日に山下が渡仏することになり、前々日に山下家で壮行会が行われる。その席で安吾や田村泰次郎らと知り合う。同年11月、『新三田派』に「坂口安吾氏の『竹藪の家』」を書き、安吾の一連の初期作品を高く評価した。その直後、安吾がウイスキーをかかえて突然訪ねて来たという。
 1932年に卒業後、都新聞社(のちの東京新聞)入社、横浜支局に勤める。
 1933年秋、田村泰次郎に誘われて『桜』同人に加わるが、すでに存続の危うい状態になっており、まもなく安吾らが同人を脱退してしまう。
 1935年、都新聞社本社文化部に異動、2年間の文芸記者時代しばしば安吾に匿名批評を頼む。
 1936年、取材で訪ねた宇野千代と恋仲になり、共にファッション雑誌『スタイル』を創刊。翌37年6月、都新聞社を退社、千代の勧めで本格的に作家生活に入る。
 1938年11月、亡き妻のことを描いた「妻」が芥川賞候補になる。同月、宇野千代が三好達治を編集人として文芸雑誌『文体』を創刊すると、北原も編集に加わる。北原は安吾に、古典に取材した短篇を書くよう奨め、「閑山」や「紫大納言」などに結実する。
 1939年4月、吉屋信子および藤田嗣治の媒酌により宇野千代と結婚。
 1941年11月、『現代文学』に安吾との往復書簡「文学問答」を発表。同月中旬から陸軍報道班員として徴用され、翌年1月ジャワ島へ赴任。
 戦後は「魔に憑かれて」「情人」「告白的女性論」など、性を主題にした小説やエッセイでベストセラー作家となる。1964年、宇野千代と離婚。

黒田孝子(くろだ・たかこ)
生没年不詳

 画家。
 1932年3月初め、京都に着いた安吾が加藤英倫の住むアパートに部屋を借りて1カ月ほど滞在した折、安吾や加藤、安原喜弘と共に毎晩のように酒を酌み交わす。安吾の自伝的小説「二十七歳」の中で、加藤英倫に惚れていたと書かれている美人画家。安吾が京都から上京してまもない4月末に書いた手紙の宛名は「黒田英三郎様・孝子様」と連名になっており、文中で「奥様」と書いているので、結婚していたようである。
 1933年9月、二科展に入選して上京、安吾や加藤らと久闊を叙す。同月、安吾の肝煎りで創刊された『紀元』には加藤や安原も同人となっており、翌年からしばしば同誌の挿絵を描いた。

小林秀雄(こばやし・ひでお)
1902(明治35)4.11‐1983(昭和58)3.1

 文芸評論家。東京市生まれ。
 1915年、東京府立第一中学校入学。その後1918年までに、1級上の富永太郎、河上徹太郎らと知り合う。1921年頃から志賀直哉に師事、小説「蛸の自殺」が志賀に認められる。
 1924年、友人の紹介で青山二郎を知る。同年12月、富永、河上、永井龍男らと『山繭』創刊。
 1925年、東京帝大仏文科入学。同級生に三好達治、中島健蔵、今日出海らがいた。4月、富永太郎を通じて中原中也と親交を結ぶ。5月、富永とともに『山繭』を脱退。11月、富永が病没。同月、中也の恋人だった長谷川泰子と同棲。
 1928年、東大卒業。泰子と別れて奈良に住み、志賀直哉家に出入りする。
 1929年4月、中也や河上、富永次郎、大岡昇平、安原喜弘、古谷綱武らと同人誌『白痴群』創刊。9月、「様々なる意匠」が『改造』懸賞評論2席に入選。10月、『文学』同人となり、ランボオ「地獄の季節」の翻訳を創刊号から連載、翌年刊行。
 1930年4月から翌年3月まで『文藝春秋』に文芸時評「アシルと亀の子」を連載。同年5月、河上、永井、青山、井伏鱒二、牧野信一、嘉村礒多、三好達治らと『作品』創刊。
 1931年10月、牧野信一主宰の『文科』創刊に加わり、安吾を知る。同誌には牧野と共訳でポーの詩「ユレカ」を2回連載する。
 1932年、明治大学文芸科講師に就任(1938年から教授)。ヴァレリイ『テスト氏との一夜』の翻訳を刊行、文壇で話題になる。安吾も翌年「新らしき性格感情」の中で「作家は誰しも自分のテスト氏を育てつゞけてゐなければなるまいと思ふ」と記している。
 1933年10月、河上徹太郎、川端康成、中島健蔵らと『文學界』同人となる。
 1935年1月、『文學界』の編集責任者となり、夏頃、安吾に原稿依頼、安吾は翌年1月から3月まで「狼園」を連載する。
 1938年、野上彰の主宰で始まった文人囲碁会に参加。安吾も秋頃から参加する。
 1940年6月、島木健作と小田原の三好達治を訪ね、近所に住む安吾と4人で鮎釣りを楽しむ。
 1946年2月、戦争中に発表した連作評論をまとめた『無常といふ事』を創元社より刊行。12月、青山二郎らと『創元』を編集、同誌に「モオツアルト」を発表。
 1947年6月、安吾が「教祖の文学」で小林の『無常といふ事』批判を展開。48年8月には2人の対談「伝統と反逆」も行われる。批判はしても互いに認め合う関係であった。
 1949年2月、安吾がアドルム中毒で入院した折には、心配して見舞いに赴く。
 その他の著書に1935年『私小説論』、1936年『Xへの手紙』、1939年『ドストエフスキイの生活』、1953年『ゴッホの手紙』、1958年『近代絵画』、1978年『本居宣長』などがある。

坂本睦子(さかもと・むつこ)
1914(大正3)頃‐1958(昭和33)4.15

 バー「ウヰンザア」などの女給。愛媛県松山市生まれ。生年は1915年説もあり。
 幼時に両親と生別、静岡県三島市の祖母のもとで育つ。小学校卒業後に上京、継母のもとから嘉悦女子商業へ通う。
 1930年頃、日比谷の文藝春秋社地下のレストラン「レインボウ・グリル」に給仕係として勤めた初日に著名な作家に処女を奪われる。その作家は直木三十五だといわれる。
 1931年、青山二郎の義弟が経営する銀座京橋のバー「ウヰンザア」の女給となる。
 1932年秋頃、店に来た安吾と愛人関係になる。その際、やはり睦子に惹かれていた中原中也が安吾に喧嘩をふっかけ、それが縁で安吾は中也と親友になったと「二十七歳」などで回想している。以後、安吾と睦子はホテルや旅館などで共寝したが性交渉はなかったと安吾自身は書いている。睦子と親しかった白洲正子によれば、睦子には「肉体の部分が極く少なかった」「たのしそうに遊んでいても、いつも彼女には一抹の淋しさがたゞよい」「終始、放心的ともいえるような表情でいた」という。
 1933年に入ると安吾と会うことは少なくなる。同年1月頃、中也からプロポーズされたといわれる。4月頃、安吾の家を久しぶりに訪ね、矢田津世子に愛人がいる噂を聞いて落ち込んでいた安吾を慰める。以後、安吾には会っていない。
 その後、菊池寛に庇護された時期があり、小林秀雄にも求婚されたことがあるといわれる。1938年頃から河上徹太郎の愛人となる。
 戦後は再び銀座に出て、文壇バー「ブーケ」の女給となる。
 1949年12月、伊東から出てきた青山二郎が睦子の五反田のアパートに同居。青山は愛人というより保護者のような存在であった。宇野千代や白洲正子とも親しく交わる。
 1950年、青山命名のバー「プーサン」が開店、女給として勤める。この頃から8年近く、大岡昇平の愛人となる。1955年、「ブーケ」から独立した「ブンケ」に勤める。
 1957年頃、大岡と別れ、翌58年4月、新宿区百人町のアパート自室で睡眠薬自殺。大岡は睦子をモデルとして、同年8月から1年間「花影」を連載した。

笹本寅(ささもと・とら)
1902(明治35)5.25‐1976(昭和51)11.20

 小説家。新聞記者。佐賀県生まれ。
 東洋大学中退。1925年、春秋社に入社、中里介山『大菩薩峠』刊行業務を担当。
 1931年、時事新報社の文芸記者となる。
 1933年5月、『時事新報』掲載記事をまとめた『文壇郷土誌プロ文学篇』を刊行。同月、安吾らが創刊した『桜』を好意的に記事にし、同人会にも出席する。その折、矢田津世子と時事新報社社会部長の不倫の噂を安吾に伝える。
 1934年、時事新報社を退社、作家生活に入る。『文壇手帖』刊行。
 1939年、海音寺潮五郎らと同人誌『文学建設』を創刊。
 1939年7月、「維新の蔭」が直木賞候補の予選を通る。
 1940年7月、「堪忍料一万石」が直木賞候補の予選を通る。
 1941年、「会津士魂」により第1回野間文芸奨励賞受賞。
 1947年3月、安吾が「二十七歳」で笹本のことを書いたのを懐かしみ、安吾に手紙を送る。その後も『キング』などへ歴史小説を多く書き、晩年は郷里佐賀で暮らした。

谷丹三(たに・たんぞう)
1909(明治42)1.19‐1979(昭和54)9.7

 小説家。評論家。バー「チトセ」主人。
 東大仏文科在学中から牧野信一宅へ出入りするようになり、1931年秋、牧野の絶讃によって文壇デビューを果たした安吾や河上徹太郎らとも牧野宅で知り合った。
 1932年3月、東大仏文科卒業。この年の前後、『焦点』という同人誌に「心暖き夕」「笑ひ声」という小説を発表、安吾は34年のエッセイ「谷丹三の静かな小説」で、この2作を絶讃、「底に光りかがやく宝石の冷めたいものを感ぜずにゐられない」と評した。
 1933年9月、安吾と牧野の肝煎りで創刊された『紀元』の同人の中でも、安吾は特に谷と隠岐和一の小説を買っている、と皆の前で太鼓判を押す。『紀元』のほか『三田文学』や『作品』に小説を発表した。
 1936年3月、自殺した牧野の通夜のあと、安吾と2人、小田原で飲み明かし、翌日の葬儀は安吾と共に受付をつとめる。
 1940年、図書出版化学主義工業社に入社、そこで知り合った向島の料亭「千歳」の娘房子と結婚、入り婿となる。1941年からは外務省調査室に勤務。
 戦後は房子と2人で新宿にバー「チトセ」を開き、房子と親しかった梶三千代と安吾を1947年3月に引き合わせる。三千代の『クラクラ日記』によると、「青鬼の褌を洗う女」や「金銭無情」などの安吾作品に谷夫妻をモデルにしたとおぼしい登場人物があるらしい。
 『新小説』1947年9・10月合併号に小説「悪魔の酒」を発表。
 後に房子は谷と離婚して、『新潮』の編集者野平健一の夫人となったが、房子はその後も頓着なく坂口家に出入りした。逆に谷のほうが安吾と疎遠になり、「チトセ」を畳んで「さいかち屋」という飲み屋をやりながら、『近代文学』や『一座』などにほそぼそと短篇を発表していたが、話題になることはなかった。
 その後、法政大学でフランス語講師をしたり渡仏したりしたらしいが、1979年に脳腫瘍にて死去。

田村泰次郎(たむら・たいじろう)
1911(明治44)11.30‐1983(昭和58)11.2

 小説家。三重県四日市市生まれ。
 1929年、第二早稲田高等学院(修業年限2年。大学予科に当たる)入学。同級生の河田誠一や大島博光と知り合う。
 1930年12月1日、河田、大島博光、秋田滋、寺河俊雄らと『東京派』創刊。同誌に執筆した「意識の流れ統整論」などが認められ、『三田文学』『誌と詩論』から評論を依頼される。同人誌作家を糾合する『新科学的』と『今日の文学』に当時の新人作家たちが集まり、月1回の会合を開いたことによって、井上友一郎、北原武夫、山下三郎、中山義秀、石川達三、小田嶽夫、上林暁、伊藤整らとの交流が生まれる。
 1931年4月、早稲田大学仏文科入学(修業年限3年)。
 1933年5月、早稲田在学中、坂口安吾、井上友一郎、河田誠一、矢田津世子、菱山修三、真杉静枝、大島敬司らと商業的同人誌『桜』創刊。長篇「をろち」を連載する。
 1934年2月、河田誠一病死のしらせを受けて、『桜』同人を代表して香川県仁尾へ赴く。帰京直後、『新潮』4月号への原稿依頼が届き、早稲田大学の卒業試験準備を放擲して5日ほどかかって30枚弱の短篇「選手」を書いて送る。これが田村のメジャー・デビューとなる。
 1940年、夭折した河田誠一の詩集を編纂、刊行準備中の同年4月26日に応召となり、あとを井上友一郎と草野心平に託す。9月30日、昭森社より『河田誠一詩集』刊行。
 戦後、「肉体の悪魔」「肉体の門」を発表、肉体文学と呼ばれベストセラーとなる。

中島健蔵(なかじま・けんぞう)
1903(明治36)2.21‐1979(昭和54)6.11

 文芸評論家。翻訳家。東京市生まれ。
 1925年、東京帝大文学部仏文科へ入学、辰野隆に師事する。同期生の小林秀雄、三好達治、今日出海らと知り合う。1928年、東大仏文科卒業後、同研究室副手、33年から助手となる。
 1931年、小林や今、堀辰雄、井伏鱒二、河上徹太郎、青山二郎、嘉村礒多、永井龍男、牧野信一らが前年創刊した『作品』にヴァレリー「ヴァリエテ」などの翻訳を発表、文芸評論の執筆を始める。
 同年10月、牧野が主宰した『文科』の同人にも加わり、安吾と出逢う。31年秋頃から河上や安吾らと痛飲することが多くなる。飲むと終始笑顔で絡み癖がなかったので、安吾は特に中島と飲むのを好んだ。
 1933年10月、小林秀雄、河上徹太郎、川端康成らと『文學界』同人となる。
 1934年、処女評論集『懐疑と象徴』を刊行。同年から1962年まで、東大仏文科講師。
 1935年4月、安吾が竹村書房の顧問として『スタンダアル選集』を企画した折には、翻訳者の筆頭に挙げられ、企画の相談を受ける。翌年1月、同選集第1巻「ラミエル」を中島訳で刊行。
 同年7月、『作品』誌上で安吾が「日本人に就て~中島健蔵氏へ質問~」を発表、同じ号に「個人の歴史に就いて~坂口安吾氏へ返信~」を発表する。
 同年同月、新宿・白十字で安吾の『黒谷村』出版記念会が催された折には司会を務める。
 1938年6月、安吾は「本郷の並木道」において「本郷の街路樹下を最も颯爽と歩く人物は中島健蔵先生であると、先日一文科生が僕に語つた。(略)学生に否ず、実にわが健蔵先生であるときいて慶賀に堪えない思ひなのである」と親愛をこめて書いている。
 1942年、陸軍報道班員として徴用されマライへ派遣されるが、年末までに帰国。
 戦後、日本文芸家協会、ペンクラブなどの再建に協力、日本著作家組合書記長、日本中国文化交流協会理事長など多数の団体で役員をつとめた。
 著書に1936年『現代文芸論』、1957年『昭和時代』、1977年『回想の文学』全5巻など。

中原中也(なかはら・ちゅうや)
1907(明治40)4.29‐1937(昭和12)10.22

 詩人。翻訳家。山口県生まれ。
 1923年、山口中学3年次を落第し、京都の立命館中学に転校。その秋、高橋新吉『ダダイスト新吉の詩』に感動、ダダの詩を書きはじめる。そんな折、3歳上で女優志願の長谷川泰子と出逢い、翌年4月から同棲生活を始める。
 1924年夏、まだ無名の詩人富永太郎と出逢い、フランス象徴派の詩を学ぶ。
 1925年3月、泰子とともに上京、4月に富永の紹介で小林秀雄と親交を結ぶ。11月、富永太郎が病没。泰子が小林と恋仲になって去る。
 1926年秋頃から、アテネ・フランセへ通いはじめる。
 1928年秋、小林の親友河上徹太郎や富永太郎の弟富永次郎、大岡昇平、安原喜弘、古谷綱武らと同人誌『白痴群』の創刊を計画、29年4月創刊。
 1930年4月、『白痴群』が6号で終刊。この最後の号は中也がひとりで出したといわれる。
 1931年、東京外国語学校専修科仏語部に入学。秋、青山二郎と出逢う。
 1932年3月初め、京都帝大哲学科を卒業間際の安原を訪ねて飲み、郷里山口へ向かう。3月24日には安原が山口を訪れ、中原宅に5日間滞在する。この年、青山二郎の義弟が経営する銀座京橋のバー「ウヰンザア」に入り浸り、女給の坂本睦子に惹かれる。秋頃、店に来た安吾が睦子と恋仲になると喧嘩をふっかけ、それが縁で安吾と親友になる。詩集『山羊の歌』刊行を計画するが、資金調達ができず各社へ持ち込むが2年間難航する。
 1933年1月、睦子にプロポーズしたといわれる。3月、東京外国語学校を卒業。5月、安吾らが創刊準備中の『紀元』同人に加わり、7月には富永次郎と安原も誘い入れる。9月の創刊号から翌年2月まで毎号に詩を発表するが、旧作の再掲が多かった。12月、遠縁の上野孝子と結婚。同月、訳詩集『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を三笠書房より刊行、安吾はこの書に寄せて「神童でなかつたラムボオの詩」を発表する。
 1934年10月、長男文也誕生。12月、詩集『山羊の歌』を文圃堂書店から刊行。装幀は高村光太郎。
 1935年5月、『歴程』が創刊され草野心平、高橋新吉、菱山修三らとともに同人となる。
 1936年11月、長男文也の死にショックを受け、精神が不安定になる。
 1937年1月、千葉市の中村古峡療養所に入院。1月後に退院し、鎌倉へ転居。9月、『ランボオ詩集』を野田書店より刊行。詩集『在りし日の歌』原稿を清書、小林秀雄に託す。10月、結核性脳膜炎により死去。

野上彰(のがみ・あきら)
1909(明治42)2.15‐1967(昭和42)11.4

 詩人。小説家。編集者。本名は藤本登。徳島市生まれ。生年は1908.11.28説もあり。
 東京帝大文学部美学科から京都帝大法学部に転入。1933年、滝川事件に抗して中退。
 1937年、安永一を主幹として岩谷書店から『囲碁春秋』創刊、編集長となる。
 1938年、文人囲碁会を主宰、赤坂溜池にあった日本棋院で定期的に開催する。小林秀雄、三好達治、尾崎一雄、豊島与志雄、川端康成、村松梢風、倉田百三、三木清、徳川夢声らが参加。安吾も岡田東魚や頼尊清隆らを伴って秋頃から参加するようになる。
 1939年2月、文人囲碁会で安吾、岡田、頼尊、豊島、伊田和一、若園清太郎らと本郷チームを結成、尾崎一雄らの上野砂子屋チームと対戦して圧勝。
 同年5月、安吾が移り住んだ取手へ、岡田、頼尊とともに赴き、若園清太郎、関義らを加えて『野麦』もしくは『青麦』という同人誌を作る計画に安吾を誘うが、資金の問題で同人誌は実現せず。
 1940年、日本棋院の機関誌『囲碁クラブ』の編集長となり、11月号に安吾のエッセイ「負け碁の算術」を掲載。文人囲碁会を通じて川端康成に師事し、創作を志す。日本棋院では『棋道』の編集もつとめたが、終戦とともに辞す。
 戦後は初め、暁社の『暁鐘』の編集に携わり、安吾の「桜の森の満開の下」を1946年11月号に掲載予定で組み置きになったが、この号は発行されず廃刊となる。
 同46年、大地書房の創立に招かれて編集局長となり、文芸誌『プロメテ』『日本小説』、少女雑誌『白鳥』を創刊。また、芸術前衛運動の「火の会」を結成し、創作では詩、小説、童話、ラジオドラマ、オペラの訳詩、放送劇の台本や主題歌作詞など多彩なジャンルで活躍する。
 著書に『定本囲碁講座』全3巻、川端康成との共訳『ラング世界童話全集』、詩集『幼き歌』、エッセイ集『囲碁太平記』など多数の著書がある。

牧野信一(まきの・しんいち)
1896(明治29)11.12‐1936(昭和11)3.24

 小説家。神奈川県小田原生まれ。
 1919年、早稲田大学英文科卒。下村千秋、浅原六朗らと『十三人』を創刊、同誌に「爪」を発表。これが島崎藤村の賞讃を受け、私小説作家として文壇デビュー。
 1923年、宇野浩二、葛西善蔵、久保田万太郎らを知る。
 1924年、処女作品集『父を売る子』刊行。
 1927年、神経衰弱の傾向が強くなり、妻子をつれて小田原へ帰る。この頃からしだいに、日常に古代ギリシャの幻想風味を加えたファルス小説に転じた。
 1930年4月、単身上京して『作品』創刊の準備に加わり、同人の井伏鱒二、河上徹太郎、小林秀雄らとの交友が始まる。9月、大森に居を構え、妻子を呼び寄せる。
 1931年7月、『文藝春秋』付録冊子で安吾の「風博士」を激賞、8月には『時事新報』で「黒谷村」を褒め、安吾の文壇デビューを強力に後押しする。同時に安吾を大森山王の自宅へ招待、交友が始まる。10月、小林、河上、井伏、堀辰雄、稲垣足穂、嘉村礒多、丸山薫、安西冬衛、坪田譲治、三好達治、青山二郎らを糾合して春陽堂から『文科』を創刊。全4輯にわたって長篇「心象風景」を連載するとともに、新人の安吾にも長篇「竹藪の家」連載の場を与える。この頃から河上や安吾と痛飲することが多くなる。東大仏文科在学中の谷丹三も牧野の家によく出入りした。
 1932年初め頃、泉岳寺附近へ引っ越し、小学2年生だった長男英雄を九段の暁星小学校に編入させる手続きを安吾に代行してもらう。
 1933年、神経衰弱が悪化、春から安吾と牧野の肝煎りという形で『紀元』の創刊準備が始まるが、打ち合わせではただ飲んでいるだけであったらしい。
 同年12月2日、嘉村礒多の葬儀で久しぶりに安吾と会い、かつてのように飲みに行く機会がふえる。
 1934年3月、小田原に帰郷。初夏の頃、安吾が訪れ暫く滞在した折、共に昆虫採集に出る。12月、「鬼涙村」発表。
 1936年3月24日夕、小田原で縊死。安吾は26日の葬儀で谷丹三らと受付をつとめ、追悼文「牧野さんの死」「牧野さんの祭典によせて」を発表した。1938年発表の短篇「南風譜」は「牧野信一へ」という副題をもち、戦後は牧野をモデルにした短篇「オモチャ箱」を発表している。

真杉静枝(ますぎ・しずえ)
1901(明治34)10.3‐1955(昭和30)6.29

 小説家。福井県生まれ。生年は1905年説もある。
 少女時代を台湾で過ごし、17歳で結婚するが離婚、『大阪毎日新聞』記者となり、正岡容と心中未遂事件を起こす。
 1927年、武者小路実篤の愛人となり、小説の指導を受ける。同年、「小魚の心」で文壇デビュー。1932年、武者小路と別れる。
 1933年5月、安吾、田村泰次郎、井上友一郎、矢田津世子、菱山修三、河田誠一、大島敬司らと商業的同人誌『桜』創刊。10月、『桜』の発行が困難になり、安吾や矢田らとともに同人を脱退。その後、中村地平と同棲。
 1938年12月、安吾の紹介で竹村書房から処女作品集『小魚の心』を刊行、序文を安吾が書く。1939年夏、取手へ移り住んだ安吾を中村地平と訪ねる。翌40年1月には安吾が2人の家を訪ねて来るなど親交を結ぶ。1941年秋頃、中村地平と別れる。
 1942年、中山義秀と結婚するが3年で離婚。
 戦後は鏡書房を設立、娯楽誌『鏡』を創刊するが3号で廃刊。晩年は創作から遠ざかり、肺癌により死去。

三好達治(みよし・たつじ)
1900(明治33)8.23‐1964(昭和39)4.5

 詩人。大阪市生まれ。
 1925年、東京帝大仏文科入学。同級生に小林秀雄、中島健蔵、今日出海ら。
 1926年、梶井基次郎らが前年に創刊した『青空』の同人となり、詩を発表する。
 1927年、伊豆湯ヶ島温泉で療養中だった梶井を見舞い、ここで萩原朔太郎、宇野千代、川端康成らと知り合う。朔太郎の紹介で大森馬込に転居。1928年、東大卒業。
 1929年、ボードレールの散文詩集『巴里の憂鬱』を翻訳刊行。
 1930年12月、第1詩集『測量船』を刊行、高い評価を得る。安吾もこれを愛読し、1933年3月の矢田津世子宛書簡で同集中の詩「雪」を引用している。
 同年、堀辰雄、小林秀雄、河上徹太郎、井伏鱒二、牧野信一らの『作品』同人となる。
 1931年10月、牧野信一主宰の『文科』創刊に加わり、安吾と知り合う。
 1934年、堀辰雄、丸山薫らと詩誌『四季』を創刊、編集にも携わる。
 1938年、野上彰の主宰で始まった文人囲碁会に参加。安吾も秋頃から参加する。
 同年11月、宇野千代のスタイル社から『文体』創刊、編集主幹となり、同じく編集に当たった北原武夫と共に、安吾に古典に取材した短篇などを依頼。全7冊発行された『文体』の5冊に「閑山」「紫大納言」など新機軸の安吾作品を載せる。
 1939年1月、小田原に移り住む。
 1940年1月、取手にいた安吾を小田原の早川橋際亀山別荘に呼び寄せ、毎朝食事に来る安吾と碁を打ったり、キリシタン関係の書物を薦めたりする。
 同年6月、小林秀雄と島木健作が訪れ、安吾と4人で鮎釣りを楽しむ。
 1941年7月22日、早川の堤防が決壊、浸水被害に遭い、安吾の借家は流れ去る。小田原に居つかなくなっていた安吾と被災処理の件で少しもめて、以後疎遠になる。
 1942年11月、安吾は「青春論」の中で「三好達治が僕を評して、坂口は堂々たる建築だけれども、中へ這入つてみると畳が敷かれてゐない感じだ、と言つたさうだ」と愉快そうに書いている。
 戦争中は戦争協力詩を数多く書き、終戦後に批判を浴びた。
 1952年6月に桐生で講演をした折、同地に住む安吾を久しぶりに訪ねたようである。
 他の詩集に1939年『艸千里』、1952年『駱駝の瘤にまたがつて』、詩論集に1963年『萩原朔太郎』などがある。

安原喜弘(やすはら・よしひろ)
1908(明治41)‐1992(平成4)

 美術評論家。東京市生まれ。
 成城第二中学校(26年から旧制成城高校)在学中に同級生の大岡昇平、加藤英倫、富永次郎、古谷綱武らと知り合う。
 1928年秋、中原中也と知り合い、中也の最も親しい友となる。中也と河上徹太郎、大岡、富永、古谷らを同人として『白痴群』の創刊を計画。
 1929年4月、京都帝大哲学科に入学、美学美術史専攻。左京区百万遍の京都アパートメントに住む。同月、『白痴群』創刊(~30年まで)。
 1932年3月、京大卒業。同月初め、京都に来た中也と飲み、郷里山口への夜行列車に乗る中也を見送る。その後まもなく安吾が京都に着き、京大経済学部にいた加藤英倫に紹介されて毎晩のように加藤や安吾と酒を酌み交わす。3月24日、山口へ赴き、中原宅に5日間滞在後、夜行で京都に戻り、荷物をまとめて東京へ。
 1933年5月、安吾らが創刊準備中の『紀元』に中也が仲間入りし、7月に富永次郎と共に安原も誘われ、同人加入。
 後年、日本育英会奨学部長などを歴任。
 著書に1932年『ゴッホ』、同年『セザンヌ』、1979年『中原中也の手紙』など。

矢田津世子(やだ・つせこ)
1907(明治40)6.19‐1944(昭和19)3.14

 小説家。本名ツセ。秋田県南秋田郡五城目町生まれ。
 1916年、一家で上京。1925年、日本興業銀行に入行。
 1927年、兄の転勤に伴い、母と兄の一家3人で名古屋へ。
 1929年、長谷川時雨主宰の『女人芸術』名古屋支部に加わり、プロレタリア文学系の小品を発表しはじめる。
 1930年12月、短篇「罠を跳び越える女」が『文学時代』の懸賞に当選、同月、『女人芸術』にも同系の短篇「反逆」を発表、新進作家として名を知られるようになる。
 1931年、単身上京、淀橋区下落合に下宿する。時事新報社社会部部長で既婚の和田日出吉との交際が始まり、大岡昇平、大谷藤子らと知り合う。大谷とは親密な仲に発展する。
 1932年11月、兄と母が上京、再び3人で住む。年末から翌年1月半ばにかけての時期、和田と銀座京橋のバー「ウヰンザア」へ行った折、遠縁の加藤英倫と安吾に出逢う。数日後、加藤と連れだって蒲田の安吾宅を訪ね、手紙で自宅へも招待する。
 1933年1月中旬、安吾、大岡、加藤らと飲み、安吾とは急速に親交を深める。3月、大島敬司から商業的同人誌『桜』の計画を聞き、安吾を勧誘する。
 同年5月、安吾、大島、田村泰次郎、井上友一郎、河田誠一、菱山修三、真杉静枝らと『桜』創刊。芸術派作家への転身を図って、安吾の「麓」、田村の「をろち」とともに長篇「防波堤」を連載する。同月下旬、安吾から大久保海洋が始めた『東京週報』に紹介され、寄稿。
 同年7月21日、左翼関係者にカンパした嫌疑で特高に連行され10日余り戸塚署に留置される。この事件以来健康を害し、安吾ともほとんど会わなくなる。10月、『桜』の発行が困難になり、安吾とともに同人を脱退。なしくずしに別れた状態になる。
 1934年、武田麟太郎に師事、指導を受ける。
 1935年、高見順、大谷藤子らの『日歴』同人となる。翌年3月に武田麟太郎が創刊する『人民文庫』にも同人参加。
 1936年1月、蒲田の実家に戻っていた安吾を再訪、1カ月ほど頻繁に会うが、会えば会うほど関係は冷えていく。3月、菊富士ホテルに移り住んだ安吾を訪ねて「死んだような」口づけを交わし、直後に別れの手紙を送る。6月に安吾からも絶縁の手紙が来る。
 同年8月、「神楽坂」で第3回芥川賞候補となる。
 1944年、結核により死去。
 著書に1936年『神楽坂』、1939年『花蔭』、1941年『茶粥の記』、1942年『鴻ノ巣女房』など。

山内直孝(やまうち・なおたか)
1901(明治34)‐1975(昭和50)9.13

 看板職人。北海道室蘭生まれ。神奈川県小田原市で育つ。
 牧野信一の幼友達で、多くの文人と交流があった。看板屋「ガランドー工芸社」を営む。「山内画乱洞」「峨巒洞」など気ままに表記し、雅号は「酒」を分解した「酉水」、自宅を「酉水居」と称した。安吾後年の短篇「水鳥亭」の命名はこれのもじり。
 1940年1月、三好達治の誘いで小田原へ転居した安吾と知り合い、よく飲み歩くようになる。
 1941年7月の水害で安吾の借家が流れ去った時には、安吾から荷物の引き取り役を頼まれる。11月、辻潤が小田原の山内宅に寄寓。この折、小田原に出かけた安吾と歓談したかともいわれる。辻は1943年10月にも山内宅に寄寓した。
 1941年12月8日、太平洋戦争勃発のニュースを聞いた後、山内宅に泊まっていた安吾と生魚を探し求めて相模湾沿いをバスで回り、焼酎に酔った話は「真珠」に詳しい。

山下三郎(やました・さぶろう)
生没年不詳

 小説家。実業家。
 慶應義塾大学法学部在学中の1929年11月、同人誌『季節の展望』の創刊にかかわる。同誌に発表した短篇「手紙」が川端康成に認められる。1930年10月には『素質』を創刊、旺盛に執筆を続ける。北原武夫によると、この当時、群雄割拠する同人誌の新人作家たちの中で一頭地を抜いていたのは、坂口安吾、田村泰次郎、山下三郎の3人であったと後に記している。
 1931年7月、『素質』を引き継ぐ形で、同大学国文科の北原武夫らと『新三田派』を創刊(翌年6月まで全8冊)。創刊まもない7月13日に渡仏することになり、前々日に山下家で壮行会が行われる。安吾や田村泰次郎らも同席。
 渡仏後は作家活動から遠ざかり、実業家の道へ進む。のちに山下新日本汽船社長、海事産業研究所理事長などをつとめた。

頼尊清隆(よりたか・きよたか)
1915(大正4)5.14‐

 新聞記者。文人囲碁会メンバー。大阪生まれ。
 東京帝大独文科大学院に進む。東大囲碁部の主将をつとめ、本郷3丁目の碁会所「富岡」の常連の間でも碁の強さは有名であった。
 1938年8月頃から岡田東魚に連れられて富岡に来た安吾と知り合い、よく飲みに行くようになる。
 1939年2月、文人囲碁会で安吾や岡田、野上彰、豊島与志雄らと本郷チームを結成、尾崎一雄らの上野砂子屋チームと対戦して圧勝する。
 同年5月、安吾が移り住んだ取手へ野上彰、岡田東魚とともに赴き、若園清太郎、関義らを加えて『野麦』もしくは『青麦』という同人誌を作る計画に安吾を誘うが、資金の問題で同人誌は実現せず。
 1940年、東大大学院を出て、都新聞社(のちの東京新聞)入社。
 戦後、1947年2月18日から『東京新聞』に安吾の長篇「花妖」を連載、新進画家の岡本太郎に挿絵を頼んだが、シュールな絵が大衆的でないと新聞社内で紛糾が起き、「花妖」は5月8日で打ち切りとなる。このとき安吾が黙って引き下がったのは、自分のために奔走してくれた頼尊らの立場を思いやってのことだったという。
 その後、東京新聞社文化部副部長、文芸専門職部長を経て、1971年退職。
 退職後も1981年頃までは編集局文化部に勤務していたことがわかっている。
 著書に1981年『ある文芸記者の回想』など。

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