坂口安吾人名録データベース 詳細年譜3
   
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執筆:七北数人
荒正人(あら・まさひと)
1913(大正2).1.1‐1979(昭和54).6.9

 評論家。別名は赤木俊。福島県生まれ。
 山口高校時代に佐々木基一と出逢い、社会主義思想に熱中。
 1938年、東京帝大英文科卒業。
 1939年12月、『現代文学』の創刊に加わる。同誌が同人制となった1941年からは、大井広介の家で、安吾や平野謙、佐々木基一、南川潤、井上友一郎、郡山千冬らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。
 1944年初め頃、徴用逃れのため、大井広介の一族が経営する麻生鉱業系列のセメント会社に就職。
 1946年1月、小田切秀雄、佐々木基一、平野謙、本多秋五、山室静、埴谷雄高と『近代文学』を創刊。「第二の青春」などの評論を発表し、平野と共に、中野重治と「政治と文学」論争を行う。
 夏目漱石研究でも有名で、1975年、『漱石研究年表』で毎日芸術賞を受賞。

入江元彦(いりえ・もとひこ)
1923(大正12).8.10‐1993(平成5)

 詩人。東京生まれ。
 1937年頃から詩作を始め、『日本詩壇』同人となる。アテネ・フランセなどで学び、応召。陸軍少尉となる。
 1946年3月、福田律郎、秋谷豊、寺田弘らと『純粋詩』創刊。
 同年7月15日、銀座出版社の『サロン』編集者として安吾宅を初訪問後、弟子格の一人として足繁く出入りするようになる。
 その後、河出書房分室の『知性』編集部に移る。
 詩人としても『詩行動』『日本未来派』などの詩誌や文芸誌に作品を発表。
 著書に、詩集『百眼巨人』『千絲の海』などがあり、1956年に『天皇の人生』(彩光社)、1983年に『入江元彦詩集』(芸風書院)を刊行。

大井広介(おおい・ひろすけ)
1912(大正1)12.16‐1976(昭和51)12.4

 評論家。福岡県生まれ。本名は麻生賀一郎。
 1937年、同人誌『槐(えんじゅ)』を創刊。同誌1938年8月号にて、樽尾好のペンネームで安吾の『吹雪物語』を高く評価する。
 1939年12月、『槐』の後継誌として、平野謙、杉山英樹と共に『現代文学』を創刊、荒正人、佐々木基一らと知り合う。その後、同人制をとることになり、大井は安吾、南川潤、宮内寒弥を誘う。1940年の大晦日、浅草の雷門で安吾と会い意気投合する。以後、安吾は月のうち10日は大井家で過ごすようになり、書庫にあった探偵小説を片っ端から読み、三国志演義なども読む。大井家には安吾の他にも平野謙、佐々木基一、荒正人、南川潤、井上友一郎、郡山千冬らが集まり、探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。
 安吾は『現代文学』に「大井広介といふ男」を寄稿したほか、「日本文化私観」「文学のふるさと」「古都」など、1944年1月の終刊まで毎号のように作品を発表、座談会にも積極的に参加するなど深くかかわった。
 1943年9月、徴用逃れのため、いとこの麻生太賀吉が経営する麻生鉱業の東京支社に勤める。11月には井上友一郎を福岡県飯塚の麻生鉱業山内坑の労務係として単身赴任させる。
 1944年初め頃、安吾、南川潤、檀一雄、半田義之と共に福岡の麻生鉱業を慰問、坑内を見学する。その後、平野謙が麻生鉱業に就職、荒正人は麻生鉱業系列のセメント会社に就職する。檀一雄には大政翼賛会に勤め口を紹介する。
 戦後も安吾との交流は深く、『現代文学』同人たちが創刊した『近代文学』とは少し距離をとった。
 1948年、安吾の「不連続殺人事件」犯人当て懸賞に応募、「部分的正解」として4等を得る。同年、田島莉茉子名義で『八雲』に「野球殺人事件」を発表。埴谷雄高の協力を得て書かれたといわれ、探偵作家クラブ賞候補となる。
 1950年、久留主治平名義で『モダン日本』に推理小説「映画殺人事件」を連載。犯人当て懸賞を付け、広告文で安吾と尾崎士郎に挑戦している。
 1951年9月、安吾のために東京国税局との仲裁をすべく徴収部長らと話をする。10月半ばには、競輪のボスに命を狙われていると言って怯えたようすを見せる安吾を家に呼び、その夜来訪した石川淳と2人で安吾を諭す。これがもとで安吾と絶交することになるが、その後も安吾文学のよき理解者であった。
 野球評論、探偵小説論も数多い。

郡山千冬(こおりやま・ちふゆ)
1910(明治43)2.8‐1979(昭和54)

 評論家。翻訳家。編集者。東京生まれ。
 1933年、東京帝大美学科を卒業。『エドゥアール・マネー』や『ドイツ文学史』などの翻訳を手がける。
 1940年頃から『現代文学』同人らと交流をもち、同誌に翻訳などを発表。大井広介の家で安吾や平野謙、荒正人、佐々木基一、南川潤らと探偵小説の犯人当てや野球盤、ウスノロなどをして遊ぶ。1942年、大観堂から翻訳本『ゲーテとシラー』を刊行。
 1946年10月発表の安吾作品「足のない男と首のない男」によると、戦後は小出版社の編集部に勤めて、安吾を座談会に引っぱり出したというが、その詳細は不明。
 1948年、『文芸首都』同人として小説「像の牧水」などを発表。
 1949年、『日本文庫』に小説「出来ない顔」「巡査でいるほうが」などを発表。
 同年、安吾がアドルム中毒で暴れたりした折にはいろいろと世話をした。
 1949~52年まで竹内書房の嘱託となり、その後、新婦人社編集局長、文化実業社編集長、池坊学園講師、お茶の水学院講師を歴任した。

境野武夫(さかいの・たけお)
生没年不詳
 織物買継商。群馬県桐生市生まれ。
 早稲田大学文学部卒業。父の事業失敗のため、家業の織物買継商再建に携わる。
 戦時中は東京で日本織物統制株式会社の幹部をつとめ、戦後は両毛織産株式会社の社長となる。文学や考古学が趣味で、地元の作家南川潤と親しむ。
 1952年1月、安吾が競輪事件で尽力してくれたお礼にと桐生の南川宅へ来た折、在野の考古学者周東隆一らと洋食屋「芭蕉」での宴会に参加。2月29日、安吾が桐生に転居して来ると、周東らと周辺の古墳めぐりを案内したり、毎週水曜日には安吾の家で南川や周東らとの酒宴に参加した。また、安吾夫妻のゴルフ仲間でもあった。
 1953年7月頃、安吾と南川が絶交した折には仲介に立って、少なくとも表面上は和解させる。
 1955年2月3日、参議院議員選挙に社会党左派から立候補。その選挙事務所開きの日、安吾がお祝いに来て祝辞を述べてくれたという。
 『桐生織物史』編纂に尽力し、両毛考古学会会長、桐生体育協会、群馬フィルハーモニーの副会長などを歴任。

佐々木基一(ささき・きいち)
1914(大正3)11.30‐1993(平成5)4.25

 評論家。別名は篠塚正。広島県生まれ。
 山口高校時代に荒正人と出逢い、社会主義思想に熱中。東京帝大美学科卒業。
 1939年12月、『現代文学』の創刊に加わる。同誌が同人制となった1941年からは、大井広介の家で、安吾や平野謙、荒正人、南川潤、井上友一郎、郡山千冬らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。
 1946年1月、小田切秀雄、荒正人、平野謙、本多秋五、山室静、埴谷雄高と『近代文学』を創刊。
 その後、花田清輝らと『総合文化』『現代芸術』を創刊した。アバンギャルド芸術に造詣が深く、安部公房、石川淳についての評論があるほか、映画についての著作も多い。

高木常雄(たかぎ・つねお)
生年不詳

 1946年7月27日、春陽堂の雑誌『新小説』の編集者として坂口家を訪問。「いづこへ」の原稿をもらってまもなく銀座出版社の『サロン』誌に移り、安吾の秘書役を兼ねて坂口家へ出入りするようになる。1948年12月に一時出入り禁止となるが、のち許される。

高橋旦(たかはし・たん)
生年不詳

 本名正二。はじめ尾崎士郎に師事し、1946年2月頃はじめて坂口家を訪問。この頃から安吾に師事するようになり、アドルム中毒による発作の折には看護役としてそばについていた。その後、銀座出版社に勤務。

田中英光(たなか・ひでみつ)
1913(大正2)1.10‐1949(昭和24)11.3

 作家。東京生まれ。
 1932年、早稲田大学政経学部在学中に、漕艇選手としてロサンゼルスオリンピック出場。在学中から同人誌に小説を発表し、太宰治に師事する。35年に大学卒業後は横浜ゴムの京城出張所に勤務し、一時、左翼運動に加わる。37年結婚、応召。
 1940年、オリンピック出場時の走り高跳び選手相良八重との純愛をもとに「オリンポスの果実」を執筆、これが池谷賞を受賞して文壇に認められる。
 1944年、京城から引き揚げ、静岡県三津浜の旅館に疎開する。
 戦後、共産党に入党するが、まもなく離反。
 1947年10月、妻子を静岡に残して上京、新宿花園町に住む山崎敬子と同棲生活に入る。当時、浅草のお好み焼き屋染太郎や銀座のルパンなどでよく飲んでいたといわれ、安吾ともそれらの店で知り合ったのかもしれない。坂口家蔵書の中に、英光から贈呈された『姫むかしよもぎ』という自著があり、「坂口狐精爻様 田中英光 1947年11月29日」と署名がある。敬子宅の向かいの洋裁店で働いていた武笠シズ子を安吾宅の家政婦に推薦する。
 1948年6月13日に太宰が愛人の山崎富枝と玉川上水に入水したと16日頃聞いて、敬子とともに熱海の旅館「桃李境」にいた安吾を訪ねる。安吾と2人、連日飲みながら、太宰宛に激励の手紙を書くが未投函に終わる。太宰の死後、英光はますますアドルムを乱用するようになり、1949年5月、幻覚の果てに敬子を包丁で刺し、逮捕される。11月3日、三鷹禅林寺の太宰の墓前にて自殺。

田辺茂一(たなべ・もいち)
1905(明治38)2.12‐1981(昭和56)12.11

 作家。紀伊國屋書店創業者。東京生まれ。
 1926年3月、慶應義塾高等部を卒業。1927年1月、新宿に紀伊國屋書店を創業。
 1928年、幼なじみの舟橋聖一らと同人誌『文芸都市』を創刊。
 1930年7月から翌年8月まで、紀伊國屋書店からモダニズム雑誌『L'ESPRIT NOUVEAU』を発刊。詩人の北園克衛を編集に迎え、第6号に安吾の翻訳でトリスタン・ツァラの詩「我等の鳥類」を載せ、第7号には安吾のエッセイ「現代仏蘭西音楽の話」を載せた。北園とはその後も『紀伊國屋月報』を発刊、その後継誌『レツェンゾ』1934年7月号に、安吾の「夏と人形」を掲載した。
 1933年、舟橋、豊田三郎らと『行動』を創刊、行動主義の文学を唱えた。
 1939年から41年まで、尾崎士郎、尾崎一雄、室生犀星、伊藤整らと『文学者』を創刊。
 戦後は安吾、太宰治、伊藤整、花田清輝、舟橋聖一、梅崎春生、椎名麟三、武田泰淳、青山光二、林芙美子らと『文芸時代』の同人になった。
 1953年安吾が『新潮』6、7月号に連載した「文芸時評」では、2度にわたって茂一の随想をとりあげ「これぐらい落伍者の哀れさが身についた文章はめったに類がない」と評価した。
 同年、安吾は日本出版協同の約束違反を理由に『明治開化 安吾捕物帖』第3集の検印を拒否していたが、この年末に茂一が仲介役となって桐生を訪れると、安吾は茂一の顔を立てて二つ返事で出版社を許している。
 これら文芸活動よりも銀座での華麗な女性遍歴が伝説になっている粋人でもあった。
 安吾没後は、毎年安吾忌に出席。1974年の第20回安吾忌では、田辺の主催により紀伊國屋ホールで安吾フェスティバルが開かれ、ビッグネームが多数出演した安吾回想劇「昔を今に」の台本を執筆した。

檀一雄(だん・かずお)
1912(明治45)2.3‐1976(昭和51)1.2

 作家。山梨県生まれ。父の実家福岡や母の実家久留米、栃木県足利などを転々とする。
 1933年、東京帝大在学中に書いた処女作「此家の性格」が文壇で認められる。
 1934年4月、太宰治、尾崎一雄、古谷綱武らと同人誌『鷭』を創刊。太宰の才能に強く惹きつけられる。同誌に安吾のエッセイ「文章その他」を掲載するが、2号で廃刊となる。同年12月、太宰治、中原中也、木山捷平、山岸外史、森敦らと『青い花』を創刊、これも1号で終わる。この頃、銀座出雲橋のはせ川で、井伏鱒二と飲んでいた安吾と出逢う。
 1934年秋、『青い花』メンバーと共に、保田与重郎、亀井勝一郎らの『日本浪漫派』に合流する。
 1936年、「夕張胡亭塾景観」が第2回芥川賞候補となる。
 1939年12月、『現代文学』に加わる。同人は安吾、大井広介、平野謙、荒正人、南川潤、宮内寒弥、井上友一郎、北原武夫ら。
 1941年、高橋律子と結婚。
 1943年7月8日、少年航空兵の取材で新潟を訪れ、帰省中だった安吾と会う。禁酒の大詔奉戴日であったが酒を酌み交わし、9日、2人で越後川口に住む安吾の姉古田島アキの家に赴く。8月、長男太郎誕生。
 1944年初め頃、安吾、南川潤、半田義之と連れだって、大井広介の一族が経営する九州の炭坑会社を慰問、坑内を見学。その後、大井の紹介で大政翼賛会に勤め、陸軍報道班員として大陸へ渡る。
 戦後、帰国してまもない1946年に律子が腸結核で死去。同年、山田ヨソ子と再婚。
 1947年10月頃、郷里の九州から上京、安吾から最大限の歓待を受けている。上京後は石神井に居を構える。以後、檀はアドルム中毒の発作で暴れる安吾の面倒も辛抱強くみていくことになる。
 1949年1月から安吾のアドルム中毒が悪化、鬱病を発して暴れるようになったため、2月23日に入院するまで、安吾をなだめに行くことが多くなる。8月、石神井の自宅そばに安吾の家を建てる計画を語らい、安吾と一緒に下見に行く。
 1950年、連作「リツ子・その愛」「リツ子・その死」が好評を得る。
 1951年2月9日、「長恨歌」「真説石川五右衛門」の2作にて直木賞を受賞。同月中旬、大阪を取材中の安吾とともに、織田作之助ゆかりのバーなどを回る。
 同年10月半ば頃、競輪事件で被害妄想に陥った安吾と大井広介宅へ向かう。翌日から約1カ月、安吾を石神井の自宅にかくまう。10月18日、安吾と文春の中野修と3人で埼玉の高麗神社取材に同行。11月4日、多量のアドルムを服用した安吾が檀宅へライスカレーを百人前注文させる。
 1952年7月25日から八月五日頃まで「決戦川中島」の企画で安吾と新潟から松本へ取材旅行。松本の平島温泉ホテルに逗留時、大暴れした安吾が留置場に入れられる。
 1953年6月、足利に自邸建築の計画を立てていた安吾と三千代を連れて、足利へ好適地を見に行く。1954年6月、長女ふみ誕生。
 1955年2月、安吾没後も安吾選集の編集や安吾忌の幹事などを長くつとめた。
 1956年頃から愛人の入江杏子と同棲。杏子との破滅的な生活を描いた代表作「火宅の人」を死の直前まで書きつづけた。

平野謙(ひらの・けん)
1907(明治40)10.30‐1978(昭和53)4.3

 評論家。京都市生まれ。本名は朗(あきら)。
 東京帝大社会学科中退。在学中からプロレタリア文学運動に参加。
 1939年12月、大井広介、杉山英樹と共に『現代文学』を創刊、荒正人、佐々木基一らと知り合う。同誌が同人制となった1941年からは、大井広介の家で、安吾や荒、佐々木、南川潤、井上友一郎、郡山千冬らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。ポーの未完長篇の解決篇を安吾と合作しようと幾晩も意見を戦わせたこともあった。
 1944年9月、徴用逃れのため大井の一族が経営する福岡の麻生鉱業に就職し、敗戦まで勤務。
 1946年1月、小田切秀雄、佐々木基一、荒正人、本多秋五、山室静、埴谷雄高と『近代文学』を創刊。「島崎藤村」などの評論を発表し、荒と共に、中野重治と「政治と文学」論争を行う。
 同年11月22日、安吾、太宰治、織田作之助との座談会「現代小説を語る」が銀座の実業之日本社で行われ、皆でバー「ルパン」へ繰り出す。
 1949年5月、「芸術と実生活」を発表。これを書き継いで1958年1月に刊行された同題の単行本が芸術選奨を受ける。
 1963年、『文芸時評』が毎日出版文化賞を受賞。
 存生中の1974年から翌年にかけて、新潮社から『平野謙全集』を刊行、第1回配本が野間文芸賞を受賞。

水野成夫(みずの・しげお)
1899(明治32)11.13‐1972(昭和47)5.4

 実業家。随筆家。
 1939年1月~41年3月、田辺茂一、尾崎士郎、榊山潤、室生犀星、伊藤整、尾崎一雄、丹羽文雄らと『文学者』同人になる。
 1939年9~1月、士郎と2人で第1次『風報』を3冊刊行。
 1946年、尾崎士郎と安吾が第2次『風報』を作ろうとした時も、士郎に誘われて2人でユーモアもののシリーズ企画を発案、安吾とも面会する。しかし、これが安吾の「低俗な世相と戦ふ決意」と相いれず、安吾は手を引くことになる。
 1951年1~4月の第3次も士郎との共同編集、1954年7月~62年10月の第4次は士郎と尾崎一雄と3人で編集に当たり、文芸・学術出版の酣燈社(士郎の命名)を設立した。
 また、財界人としては、戦前から戦後にかけて再生製紙、国策パルプを経営。文化放送社長、産経新聞社社長(1958年~)、経団連理事などを歴任。「財界四天王」「マスコミ三冠王」などと呼ばれた。

南川潤(みなみかわ・じゅん)
1913(大正2)9.2‐1955(昭和30)9.22

 作家。東京生まれ。本名は秋山賢止。
 慶應義塾大学英文科在学中に書いた小説「掌の性」「風俗十日」で三田文学賞を2年連続受賞。北原武夫や山下三郎と並ぶ三田派の新人として注目される。
 1940年、「春の俘虜」で直木賞候補となる。同年秋、野口冨士男、十返肇、船山馨、田宮虎彦、青山光二らと同人グループ『青年芸術派』を結成、『青年芸術派・新作短篇集』や『青年芸術派叢書』全8冊などを刊行する。
 1941年初め頃、大井広介に誘われて『現代文学』同人になり、大井の家で、安吾や平野謙、荒正人、佐々木基一、井上友一郎、郡山千冬らと探偵小説の犯人当て、野球盤、イエス・ノー、ウスノロなどをして遊ぶ。
 1944年初め頃、安吾、大井、檀一雄、半田義之と共に、大井の一族が経営する福岡の麻生鉱業を慰問、坑内を見学する。同年4月、妻の郷里の群馬県桐生市に一家で疎開。
 戦後も心臓弁膜の持病で上京できず、ずっと桐生で過ごす。
 1951年12月下旬、安吾は競輪事件の不正写真を鑑定してほしいと秘書の渡辺彰と弁護士2人を桐生へよこす。在野の考古学者で群馬大学に勤める周東隆一と相談し、群大工学部で写真を精密に調査してもらうが証拠はつかめず。
 1952年1月、桐生までお礼に来た安吾が引っ越して来たいと言い出す。書上文左衛門邸の母屋を借りられることになり、2月29日、安吾が一家で引っ越して来る。秘書として戸泉祐治を安吾に紹介する。毎週水曜日には安吾の家で周東隆一や織物組合理事長の境野武夫らと酒宴に参加。
 1953年6月末か7月初め頃、安吾が東京でアドルムを服用、帰宅後暴れだす。三千代が南川宅へ避難したことに怒った安吾は、ゴルフクラブを持って殴り込みに来る。この事件を機に安吾と絶交。後に境野武夫の仲介で絶交状態だけは表面上解けるが、めったに会うことはなかった。
 1955年、安吾の死から7カ月後、脳血管栓塞で死去。

森川信(もりかわ・しん)
1912(大正1)2.14‐1972(昭和47)3.26

 喜劇俳優。神奈川県横浜市生まれ。
 1931年頃から俳優となり、全国各地を転々と興行して回る。
 1934年、大阪千日前でシミキンこと清水金一らとレビュー劇団「ピエル・ボーイズ」を結成。その後、森川信一座を組んで関西を拠点に活動。この頃、浅草レビューの脚本家淀橋太郎と知り合う。
 1937年頃、安吾は京都新京極の小さな活動小屋(映画館)のレビューで若き日の森川の芸に感嘆、「青春論」などで賞讃している。
 1944年新春から東京旗揚げ興行で大阪から上京、浅草の国際劇場に出演。淀橋を通じて安吾を知る。
 戦後、「男はつらいよ」の初代おいちゃん役をはじめ、約100本の映画に出演、テレビや舞台でも活躍した。

八木岡英治(やぎおか・ひではる)
生年不詳‐1993(平成5)

 元中央公論社の編集者。
 1946年10月発行の『婦人公論』で、安吾と林芙美子の対談「淪落その他」の司会をつとめる。
 1948年8月、『季刊作品』を創芸社から創刊、編集長となる。のち作品社として独立するが、雑誌は1950年6月に廃刊。
 1948年頃から54年3月頃まで、大田区安方町の坂口家1階の応接間に夫婦で寄寓した。
 1967年から69年にかけて、学芸書林から刊行の『全集・現代文学の発見』シリーズ全16巻&別巻を編集。

淀橋太郎(よどばし・たろう)
1907(明治40)5.7‐没年不詳

 脚本家。演出家。東京生まれ。
 1930年代から浅草レビューの脚本を執筆。関西を拠点に活動していた森川信やシミキンこと清水金一らと知り合う。
 1938年8月、応召し浜松高射砲部隊へ入隊、大陸へ渡る。翌39年に除隊。
 1941年春頃、浅草の東宝演芸の脚本家として引き抜かれる。この頃、毎日のように通っていた浅草のお好み焼き屋「染太郎」で、安吾や大井広介ら『現代文学』同人たちと出逢い、親しくなる。
 1943年末頃、劇団「新青年座」を旗揚げ、1944年正月に浅草国際劇場での第1回公演を松竹少女歌劇、小唄勝太郎ショーと合同で行う。その前日の大晦日、舞台稽古が終わってのち、染太郎で安吾と会う。せがまれて翌1月1日、染太郎から国際劇場へ安吾を案内する。安吾は少女歌劇を見たあと、酔いにまかせて楽屋で演説したという。
 戦後も安吾とは染太郎でよく飲み、尾崎士郎や田中英光らと知り合う。
 1947年3月、日劇小劇場でヘソ・レビュー「院長さんは恋がお好き」を脚本・演出、ストリップの元祖として人気を博す。
 その後、吉原に引っ越し、妻とともに女郎屋「アゲーン」の経営もしながら、松竹、宝塚などで喜劇映画の脚本を10数本執筆した。

渡辺彰(わたなべ・あきら)
生没年不詳

 安吾が「不連続殺人事件」を連載した『日本小説』の編集者。その連載中に胸を病み、1948年6月28日、安吾の世話で富士見のサナトリウムへ入院。10月20日に退院後、吉本ラジオ・センターなどに勤務。安吾のアドルム中毒による発作の折には看護役をつとめ、晩年まで秘書代わりとして坂口家をしばしば訪れた。
 1954年9月、筑摩書房から『現代日本文学全集』49「石川淳・坂口安吾・太宰治集」が刊行された折、巻末に「坂口安吾年譜」を執筆。
 1967年から1971年にかけて冬樹社から刊行された『定本坂口安吾全集』の解題を執筆。

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