坂口安吾生誕祭104レポート



10月16日午後。秋晴れで、海からさわやかな風吹く一日でした。今年の「安吾生誕祭104 風紀行 」は、旧新潟市長公舎こと「安吾風の館」からスタートです。人員はおよそ50〜60名くらい。瀟洒な公舎の中がにわかににぎわいました。

まず、第1部ということで、企画展示物の紹介から始まりました。坂口安吾がその晩年に未完のまま残した紀行作品「新日本風土記」にまつわる展示物についてのご紹介でした。富山、宮崎、高知といった日本各地を訪れて集めた執筆資料や写真・原稿用紙等を見ながら、岩田さんによる解説を拝聴しました。

いろいろ見てて興味深かったのは、「新日本風土記」を執筆するにあたって、多方面な歴史資料をもとに文章をまとめるだけではなくて、誌面に添付する写真の配置・構図に至るまで、カメラマン(中村正也氏)に対して細かく多くの指示を残していたことが、残されたメモから窺いしれることでした。写真によるイメージを駆使して、安吾なりの新たな表現様式を当時からいち早く模索していたようです。

高知の足摺岬で撮ったと言われる安吾生前最後の写真も飾られてました。疲れも屈託もない笑顔です。このすぐ3日後に亡くなってしまったのが信じられなかったです。逆に考えると、それだけ突然の昇天だったんだなと思います。

また、併せて綱男さんご解説による自身の作品紹介もありました。ヨーロッパ滞在中に撮影した作品を中心に、撮影時のエピソード等を交えつつご解説いただきました。

ひきつづいて、第2部ということで、会場を新潟市美術館講堂に移して、作家中上紀さんの講演会拝聴になりました。

ちなみにこの美術館までは、みんなでそろって徒歩で移動しました。この「風の館」から美術館まで歩いておよそ10分程度と距離は短いですが、じつはこの区間内こそが、もろに安吾生誕ゆかりの地です。「風の館」正門をでて、車道を横切り、細い路地を通り抜けて、新潟大神宮の参道に至ります。ゆるい下り坂を降りていく途中の、すぐ左手に、その安吾生誕の石碑が静かに立ってました。いまでこそふつうに小さな民家が立ち並ぶ区画ですが、往時は巨大な坂口邸が、まさにそこにあって、炳五少年がこの界隈で松の木に登ったりして遊んでいたのです。いまではすっかり変貌してしまってて、当時の面影は少ないようですが。・・・

そうこう思いをはせながら歩いているうちに、本日のゲストのみなさん、いつのまにか美術館講堂内に移って着席してしまいました。室内は静まり返っています。いよいよメインイベントである中上紀さんによる講演会の始まりです。

新潟市文化政策課池田さん司会により、講演会は進行。ひきつづいて安吾の会会長斉藤正行さんのご挨拶とスピーチ。安吾の会設立には故中上健次さんの大いなる助力があったこと。また中上健次さんが新潟で講演された1989年という年が、ちょうど筒井康隆さんと柄谷行人さんと一緒に、日本文芸家協会離脱事件を起こした時であり、その経緯がこの新潟滞在と大いに関連していたこと、それがもう20年も昔のことであること。いろいろあったけれども、そのご縁があって、こうして、いま、中上紀さんをお迎えして、こうして講演をお願いできたことがたいへん嬉しいとのことでした。

ひきつづいて、中上紀さんの講演本番でした。一時間以上にも及ぶ長丁場な講演で、話の内容も多岐にわたりました。熊野と新潟との風景のこと。父中上健次の生い立ちと、娘として直に見てきたその私生活、そしてそこから伺える父中上健次の精神生活、はたまた彼を育んだ紀州熊野という風土のことなど、もろもろお話を聞かせていただきました。
ふと印象に残ったことだけを、かいつまんで書くと、やはり、父中上健次が、自分自身と安吾とを重ね合わせており、それを強く自負していたところが強かったということ。もちろん執筆スタイルも似ていたのではないか、ということでした。まず、中上健次自身が、「シャーマニックな」文章の書き方をしていたそうです。何か原稿を書く、といっても、すぐに書くわけではなくて、一週間くらいもなにもせずに酒を飲んでいたり、外を出歩いていたりする。だけど、それでも、心の内面では少しずつプロットを組みあげているのであって、それがある程度の、沸点に達したときに、酒を断ち、食事もせず眠りもせずに没頭して、一気に書き上げていたようだった。だから文章には勢いがあり、まるで自分の肉体を切って叩きつけているような生々しい迫力を持つ。もはや自分で「考えて書いている」のではなくて、「身体そのもので書いている」、それが中上健次の執筆スタイルであって、そこがシャーマンの行為と通じるものがある、おそらく坂口安吾もこれに近い執筆スタイルだったのではないか、そしてそこに中上健次が自分と安吾とを重ね合わせていたのではないか、とのことでした。

また、そうして書かれた作品にも文章的に共通する要素があるとのこと。たとえば、安吾「ふるさとに寄する讃歌」冒頭部や、中上「枯木灘」の文章のそこかしこには、風景と自分自身の肉体とがとけあって一体になっているかのような記述がみられるとのことでした。

安吾と中上との符号する点、かなり興味深く聞けました。あっと言う間に時間が経ちました。

ひきつづいて、第3部になりました。時間も30分弱と残り少なになってましたが、綱男さんと中上紀さんとのご対談でした。

まず、綱男さんからの問いかけで、(中上紀さんは)そもそもいつ頃から小説を書き始めたのか? という問いかけから始まりました。

というのも、綱男さんとしては、父坂口安吾がすでに偉大な作品を残してしまっており、特に学生時代に「日本文化私観」を初読したとき、自分の言いたいこと、書きたいことが全部表現されきっていて、もうこれ以上のものを書けない、父を越えられない、(自分が何か書くとしたら)文章が父と比較されることが怖くて若い頃はなかなか自分で文章を書くことはできなかった。
それとは、対照的に、中上紀さんとしては、父が作家中上健次であることは「それは事実にすぎない」と当初から達観した姿勢を持っていたこと。そのことは綱男さんも感心しておられたご様子でした。
(たしかに言われて考えてみれば、著名な作家の息子が父を受け継いで作家として活躍している事例は、少ないような気がします。それとは対照的に娘さんが作家として活躍する例は多いようです。男女でどういう差があるのだろうか、不思議に思います。)

作家の二世として自分自身をどう受け入れていったのか、という話は興味深かったです。またこういうご対面でないと聞き得ないテーマでした。

また、ここでも文章の「勢い」についての話題がありました。

まず中上紀さんが、父の執筆エピソードについて語る。父中上健次は、原稿を締切をすぎても仕上げられず、印刷所で一気に書いていたこともあった。原稿はいわゆるマス目の原稿用紙ではなくて、コクヨ集計用紙にびっしり手書きで細かく書き付けたものであって、改行はしない。改行作業は編集者に委ねられる、おおよそ、この辺では、と思われる箇所をセレクトして改行する。もはやゲラ刷りのチェックもするいとまも無い。かの名作「枯木灘」もこのようにして執筆された(うわさ)とのこと。

そのエピソード受けて綱男さんが言うには、父安吾が中学生から作文のコツについて訊かれて、こう答えたエピソードを紹介されました。
「君、読み返さないことだよ」
意外なコメントに客席が一瞬笑いました。でも、そこでお話続く。それは「勢い」ということ。写真とかは勢いが大事、美しい、と思ったその時にとらえないと良い写真にならない。考えすぎた写真はおもしろくないとのこと。

そう考えてみると、文章を書くこつは「読み返さないこと」ごもっともだと思います。席で聞いてて思わず納得しました。

最後に司会者からの誘い水があり、「かつて中上健次さんは、太宰は水、安吾は風、と元素にたとえたが、自分自身についてはなにも定義していない。紀さん、父を元素に例えるとどうですか」と訊ねました。

すると紀さんが、答えにしばらく困惑されながらも、火? 花かも? と定義されたのがふと印象に残りました。答えははたしていったい何なのか、気になりました。
どちらにしても、たいへん和やかなムードな対談だったと思います。聞いてて楽しかったです。

対談を終えたあとは、講堂を片付けて、会場を座敷に移して、懇親会へと突撃です。新潟の食べ物とお酒、ものすごくおいしいです。ふらふらになるくらい酔っぱらって、一夜を過ごしました。

さて、文章とは「勢い」なんだな、とは頭で理解しつつも、このレポート執筆者の自分は、残念ながらそのように鍛えられていません。自宅でパソコンの画面とにらめっこしながら、ああでもないこうでもない、と何度も読み返しながら、くれぐれも失礼の無きように神経を配りながら文章をまとめております。

関係者のみなさまもろもろありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。

では。





中上紀さん

執筆: 吉岡和年

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