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「麓」

 若き安吾が、意欲満々、初めて本格的に取り組んだ連載長篇。しかし、矢田津世子と共に参加した掲載誌『桜』は2号で廃刊となり、長篇は書き出しだけで未完に終わった。

 新潟の松之山をモデルにしたと思われる「黒谷村」が舞台だが、ごく初期の短篇「黒谷村」と内容面での関わりはない。1年後の戯曲版「麓」とも筋立ては全く違う。

 大勢の人物が入り乱れる群像劇なので、描写は全体に俯瞰的・戯曲的で、情景描写と会話を中心に物語は進行する。初めから戯曲化を想定して書かれたのかもしれない。

 陰謀家の鮫島校長や猥褻な資産家の石毛、毅然とした美人先生の梶子、左翼疑惑の椿青年などが続々登場し、大きな物語へ発展させていくつもりだったことがよくわかる。

 自分に話しかけてくる自分の幻想をみる椿青年の話や、凶暴な気持ちで木の幹を打ちすえ、杖を振りまわして歩く鮫島のシーンなど、後の「風と光と二十の私と」に描かれた代用教員時代の思い出と重なる部分もある。毅然とした美人先生にもモデルとなる女性がいたが、本作ではむしろ、矢田津世子のイメージのほうが濃く投影されているようだ。

 一つ前の短篇「小さな部屋」は、退廃的な若者たちの屈折した内面を心理主義小説の手法で描いたが、本作でも連載第1回では同じ傾向がみられた。視点はおもに馬耳老人に絞られ、彼の複雑な悪意や傷心や横恋慕などが「意識の流れ」的に描かれる。

「君はなぜ動物にならないのかね! 動物になり給へ。動物に!」

 青年に説教しながら、馬耳は自分を叱咤していた。弟の妻に、馬耳は強烈に惹かれている。破裂しそうな愛欲。その目に映る彼女の、無垢な残酷さを描くシーンが美しい。

「女には秘密の香気と秘密の色彩と、そして秘密の流れがある。流れは静かな花粉となつて舞ひ、そしてめぐり、無数の絹糸の細さとなつて空気の隙間をひそひそと縫ひ……」

「夥しい花粉」は、その後も馬耳の脳裡に何度も去来し、心の中を埋め尽くしてしまう。

「小さな部屋」でも、美貌の孤踏夫人が登場するくだりに「その部屋の空気には霧雨のやうな花粉が流れてゐて、麻油にはそれが眼や足の裏に泌みて仕様がなかつた」とあった。

 花粉の舞うイメージは、戦後の長篇「花妖」の雪子まで引き継がれていく。

 安吾にとって、妖女のイメージは「花」や「花粉」と密接に絡みついているようだ。

 
(七北数人)  
 
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