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「意識と時間との関係」

 最新版全集第1巻巻頭に置かれた研究論文。

 東洋大学印度哲学倫理学科に入学してちょうど1年、同科の学生たちによる、手書き文字、ガリ版刷りの同人誌『涅槃』第2号に寄稿された。

 悟りというものが本当にあるものなのか、安吾は十代の終わりから一心不乱に探究し、自己流の修行に励んだ。1年半ほどの修行の末、「悟りなどゝいふ特別深遠なものはないといふ幻滅に達して」(「処女作前後の思ひ出」)文学の道に立ち返るわけだが、この論文は安吾にとってまさに分岐点にあったものではないだろうか。

 2世紀頃のインド仏教の高僧、龍樹の「中論」に触発されて書いたと安吾はいうが、「中論」の主題そのものよりも、弁証法的な論理の組み立てのほうに興味が向いているようだ。証明問題をスラスラ解いてみせるように、観念のアクロバットを楽しんでいる。

 簡潔に要約すると、論旨は次のようになろうか。

「意識」というものは、時間軸に沿って永遠にうごきつづける、常に現在形の「力」である。そのため、「意識せられたモノ」は、せられた瞬間に「過去」のモノとなる。

 意識の力だけが「現在」に居るのだが、意識している「現在」を捉えることはできない。捉えれば停止してしまうからだ。捉えられた一瞬はもう現在でなく過去になる。

 だから世界の現象のすべては「過去」であり、「現在」は誰にも認識できない。量子力学の世界のように。つまり存在しないに等しい。「未来」は、はなから存在しない。

 デカルトの「方法序説」とも近しい世界で、記号論でいうシニフィアン・シニフィエの類別とか、後の哲学命題を先どりした話題だが、後年の安吾ならこう言うだろう。

「実際に於て、糞カキベラは糞カキベラでしかない」(「日本文化私観」)

 これを明らかにしたところで、何か思索の糧にでもなるのかね?

 学生の安吾は、自分でも書きながらそう思っていたはずだ。だから「後記」でわざわざ「噴飯の資になることも快く甘じて受けたく思ひます」と注記している。

「屁理屈」に近い観念論を延々とコネクリ回す「変人」の面白さに気づけば、ここからすぐに「風博士」は生まれる。哲学はファルスと非常に近縁なのだ。

 
(七北数人)  
 
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